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風の良寛 (中野 孝次)

 良寛の名前はよく聞いていましたが、その人物像については本書を読むまではほとんど知りませんでした。

 良寛(1758~1831)は、江戸時代、越後国出雲崎に生まれた曹洞宗の僧侶、和歌や漢詩を能くし書家としても有名です。

 本書で描かれている良寛の姿は、「正法眼蔵」を体現しようとした禅宗の僧侶でありながら、また老荘の人でもありました。

(p39より引用) 彼は何も為さない。とにかく世間の人が有用と考えることは何もしない。無為の人だ。
 彼は有に対する無、有為に対する無為、在に対する空である。彼は世間の人が光をのみ見るところに、同時に闇を見、生を見るとき同時に死を見る。世間が富裕を好むとき、貧困に生きる。そのようにして存在の根源のところでつねに相対している。
 ・・・良寛は何者でもないことによって、実はわれわれの試金石になっているのである。こんな人はほかには見当らない。

 本書は、良寛の漢詩や和歌を数多く示しながら、良寛の人ととなりを飾らぬ筆致で描き出していきます。

(p113より引用) 草の庵に足さしのべて小山田の山田のかはづ聞くがたのしさ
・・・無為の充実、充実した単純さくらい上等なものはないと良寛を通じて人は知る。その点でも良寛は現代人の対極にいる。

 私の場合、漢詩については、意味をとるだけでも正直難しいレベルなので、ましてや、その良し悪しや味わいを理解する素養は皆無です。
 他方、良寛の和歌は、直截的な表現が多く、またより現代の言葉に近いせいもあり、私にとっても、少しは受け入れやすく感じられました。良寛の没後、「蓮の露」「良寛禅師歌集」などの歌集が編纂されているようですが、その多くは万葉集の影響を受けたものだといいます。

(p164より引用) 良寛の和歌のよさも、ことさらに風流を求めるのでなく、ただ、春が来たことがそれだけでうれしいとうたう、そのすなおさ、自然さにある。そのところがまことになだらかに、心にしみるようにうたわれているのが、読む者に透るのだ。
 この宮のみ坂に見れば藤なみの花のさかりになりにけるかも

 良寛は、生涯無一物の境界に身を置き尽くしました。良寛の徳を慕い庇護しようとする人は数多くいたので、欲すれば穏やかな生活を営むこともできたのです。しかしながら、良寛は自らの強い意志で、幾度となく身を0地点に引き戻しました。無・空・虚の姿です。

(p235より引用) 良寛という人の在りようが、まさにこれだ、と思った。世間の人が有であるのに対し、良寛は無なのである。
 ・・・この無に照らしたとき、有であるわれわれの姿が、はじめてこういうものかとわかってくる。

 著者は、この良寛を、現代人の姿を映す鏡たるべきとみています。

(p242より引用) 良寛は現代の価値観と正反対のところにいて、そのことによってわれわれの知らなかった可能性を提示しているのだ。

 有為の価値に対する大いなるアンチテーゼです。



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