見出し画像

論より詭弁 反論理的思考のすすめ (香西 秀信)

事実は「詭弁」

 著者の香西秀信氏の専攻は「修辞学」です。
 著者は、論理的思考を「実際の議論」の中におき、その不適合性を次々と指摘して行きます。

 「論理的思考」では「事実」に基づき立論します。が、著者によると、「事実」を表現するのもそんなに簡単ではないということになります。

 たとえば、「事実」を表明する場合の「順序」です。
 複数の事実を言葉にする際には、完全に「並列(同時)」に表すことはできません。必ず表現する事実に「順序」がついてしまいます。それゆえ、不可避的に単なる「事実」の表出を越えた「印象」や「評価」といった何らかの“効果”が付加されてしまうのです。

(p29より引用) 本当の問題は、言葉による表現が、・・・それによって、本来の「事実」とは何の関係もない、ある効果が生じてしまうことである。・・・
a B君の論文は、独創的だが、論証に難点がある。
b B君の論文は、論証に難点があるが、独創的だ。
 どちらの評価も、「事実」の伝達としては、与えている情報はまったく同じである。しかし、聞き手に与える印象はまるで異なる。

 また、「論理的思考」では、「事実」と「意見」を明確に区分して立論します。しかし、著者によると、これもことは単純ではないのです。

(p52-53より引用) 事実と意見を区別することは、実はそれほど簡単なことではない。・・・
a Kは大学教授だ。
b Kは優秀な大学教授だ。
 事実と意見を区別せよと主張する人は、おそらくaが事実で、bが意見だと言うのだろう。・・・が、ここで疑問なのは、「Kは大学教授だ」が事実であるとしても、それを発言する人は、なぜそんなことをわざわざ言おうとしたのかということだ。

 実際の会話のシチュエーションによっては「単なる事実」と思えるような内容であっても、“口に出すことそれ自体”が語り手の何らかの意図の表明である場合が少なからずあるのです。

 さらに、(いろいろな場でよく見られる事象ですが、)「同じこと」を言っても、それを“誰が言ったか”によって全く別様の効果が表れることがあります。
 これは、「同じこと」を言っても「評価」が異なるのですから一見非論理的に思われますが、著者によるとむしろ当然のこととなります。

(p146より引用) 語り手は、語られた内容の一部である。私が思いつきで口にした意見と一字一字違わぬものがウィットゲンシュタインの遺稿から発見されたとしても、それらは同じ意見ではない。後者の場合、ウィットゲンシュタインの知られている全仕事が、その新しく発見された言葉の価値を保証しているからである。・・・
 だから、人を以ってその論を評価することは、必ずしも誤りとは言えない。ある言葉の意味や価値は、それが誰に語られたかによって変貌するのである。

 組織の中で自分の考えを通すために、あえて「外部の口」たとえば上司やコンサルタント等を利用することもありますね。

詭弁の王道

 ある主張が詭弁かどうかを問題にする前に、すでにその主張で用いられる物事の「名づけ」において、議論の前哨戦が始まっています。
 たとえば、テロリストが人質をとって法外な対応を要求している場合。主張の仕方、問いの立て方によって、yes/noや答え易さ/答え難さは大きく変動します。

(p60より引用) 国家の面子を守ることと、国民の生命を守ることの、どちらが大切なのか?・・・
 テロリストの卑劣な要求に屈しないことと、屈することの、どちらが正しいのか?

 これらの例は、問い自体、すでに相手方に都合のいい形に仕組まれているのです。

 また、議論の最中、「そういうお前だって同じことをやっているじゃないか」といって反論したくなることがあります。しかしながら、論理的思考では、「相手もやっている」からといって、それ自体で、自己の主張の「是」の根拠にはならないと言われます。
 この点について、著者は、この「お前も同じ」という反論に対し積極的な意味を認めています。

(p133より引用) 伝統的な論理学では、「お前も同じ」型の議論は、「論点のすり替え」という詭弁(虚偽)に分類されていた。・・・
「お前も同じ」型の議論は、このように、立証責任を本来負うべき側に与えるという機能がある。

 確かに、「論点のすり替え」は論点の変更ではありますが、それは、詭弁でも何でもなく、そもそも「正しい議論の順序に復することになる」という主張です。
 相手方も同じことをしているにもかかわらず、そのことを棚に上げて、こちらを非難するという首尾一貫していない態度を、まず正すわけです。

 最後に、なるほどと思った著者の指摘です。

(p23-24より引用) 町を行く人は、一見正しそうな考えをそのまま正しいと判断する。が、思想家は、一見正しそうな考えを疑い、それを試みに否定してみることで、その正しさを検証しようとする。・・・が、これはある意味で、論理的思考の欠点でもある。それは、一見正しいことを疑うことを教えるが、一見誤りであることにはそれ以上こだわらず、そのまま誤りにしてしまう。・・・一見誤りであること、誤っているように見えること、間違っていそうなこと、そこに正しいものを見出せることもまた真の思想家の条件の一つである。

 「マイナスの評価」と「プラスの評価」は、どちらも「評価」という点では“等価”です。しかしながら、現実の直感的な納得性では、往々にして「マイナス評価」の方が上になりがちだとの論です。
 心しなくてはなりません。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?