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吉田松陰・留魂録 (古川 薫)

 吉田松陰が伝馬町の獄舎で処刑されるのは1859年(安政6)10月27日。
 「留魂録」は死の前々日から前日にかけて書かれたもので、松陰の遺書ともいえる文書です。
  身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置かまし大和魂
    十月念五日    二十一回猛子
で始まる第1章には、やはり、松陰の信念である「至誠」が登場します。

(p78より引用) 一白綿布を求めて、孟子の「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり」の一句を書し、手巾へ縫ひ付け携へて江戸に来り、是れを評定所に留め置きしも吾が志を表するなり。

 松陰は人の一生を「穀物の四季の循環」になぞらえました。自らの30年の生を以下のように記します。

(p98より引用) 義卿三十、四時已に備はる、亦秀で亦実る、其の秕たると其の粟たると吾が知る所に非ず。若し同志の士其の微衷を憐み継紹の人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年に恥ざるなり。

 松陰の播いたたくさんの若い種子は、幕末から明治維新に力強く芽吹き、時代を疾走しました。
 松陰の種子たちは、松下村塾で育まれました。

(p193より引用) 松陰は、松下村塾をひとつの目的集団に仕上げようとしているかのようだった。そのためには、まず縦割りにされた人間関係を崩さなければならなかった。そして、横の結合という封建社会に希薄だった連帯の世界を創造しようとするのである。・・・
 れっきとした侍の子と、足軽や中間や商人の子が、対等な友人として結びあうとき、閉鎖的身分社会には求められなかった、まったく新しい「友情」の場がそこに生まれた。明治維新をさきがけた長州人の力を支えたものが、封建的身分関係を超越した友情であったとすれば、その機運を最初につくり出したのは、疑いもなく松下村塾の塾生たちであった。

 松陰は、思想家であり行動人でした。ある時期から、その考えは世情から離れた特異なものになりますが、元来は先見的かつ現実的な主張でした。

(p145より引用) 吉田松陰の攘夷論は、アヘン戦争など列強による東洋植民地化政策への警戒にもとづくものではあったが、単純な排外思想ではなかったのである。欧米の情勢を把握し、その先進文明を積極的に吸収しようとする開明的な方向に視線を据えていたのだといってよい。

 松陰の思想・行動は、多くの若者を自らの元に惹き付けました。しかし、松陰自身は、政治家でも策士でもなかったようです。策謀は巡らすことはあっても成功していません。あまりにも真っ正直な策です。

 その真っ正直な至誠の姿勢が、皮肉なことに松陰の死期を早めたとも言えます。意図してかせずか、尋問の場での松陰の付言が事を大きなものにしてしまいました。
 萩の野山獄から江戸の藩邸に送られた松陰は、7月9日にはじめて幕吏の訊問を受けました。訊問の内容は、梅田雲浜との密議の有無などでしたが、それについては身の潔白を証明しました。

 そこで終わっていればよかったのですが、松陰は、自らの主張を幕府に開陳すべく、幕府の一連の政策を激しく批判し、あげくは公卿大原重徳の西下計画や老中間部詮勝に対する要撃策を口に出してしまったのです。
 松陰は、すでにそれらのことは幕府に露見していたと早合点していました。しかし、実際は幕府にとっては寝耳のことでした。松陰自ら、自身の命を縮めたと言わざるを得ないでしょう。

 「留魂録」は、門下生に贈る松陰の遺書ですが、その数日前に、松陰は、両親・親族に宛てた遺書「永訣書」を書いています。

  親思ふこころにまさる親ごころけふの音ずれ何ときくらん


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