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小説「魔法使いのDNA」/#007


7
慎太郎

 父の具合がおかしくなったのは、僕が小学校4年のときのことだった。
 毎年、会社の健康診断は受けていたのだが、父の肺ガンはレントゲンでは発見できなかった。
 
 ずっと咳が続いているなあと思ったけど、僕が知ってる限りではずっとそうだったので、それほど気にはしていなかった。
 
 異変は最初に目にきた。
 突然、視力が落ちたらしい。焦点が合わずぼやける。外からはショボショボと力なくぼんやりしているように見える。眼鏡屋さんに行って新しく眼鏡をつくった。持ち物にこだわる父に相応しくないダサイ眼鏡だった。
 
 次に足にきた。
 つい最近まで、会社の野球や、友だちとフットサルをしたり、僕が所属していたミニバスを見にきて一緒に元気に動いていた父が、玄関の小さな段差を自力で上がれなくなってしまった。
 
 病院に行って調べたけれど、最初は医者にも原因がわからなかった。血液検査でも、血圧の検査でも、脳波にも異常は出なかったのだ。精神的なものかも知れないと精神科でも見てもらったけれど、それはまったくの見当違いだった。
 
 ようやく原因がわかり、それが肺ガンの所為だと気がついた時には、肺ガンはすでに進行していて、リンパへの転移もあった。
 
 そして父はすぐに入院することになった。
 
 その時、弟は4歳だった。
 4歳なんて可愛い盛りで、何日も家を離れ、家族と思うように会えなくなることはとても辛いことに違いなかっただろう。
 
 転移もあったし、様々な状況から手術することができなくて、抗癌剤で治療をすることになった。抗癌剤の治療はとても辛いらしく、いつもニコニコしていて優しい父が、険しい表情になってしまったので僕は悲しかった。
 
 母は可能な限り父の看病で病院に行っていたので、僕と弟は父の両親のところへあずけられる日が多くなった。夏休みなどは長い間、祖父母の家に行っていた。
 
 父の両親、つまり祖父母の家は僕の家から高速道路を使って車で1時間半程の距離にあって、それほど遠いわけではないのだけど、母は車の運転はできるけれど、高速道路を運転することが嫌いだったので、一般道を通って倍くらいの時間をかけて行くか、あるいは祖父が僕の家まで迎えに来てくれた。
 
 祖母はおっとりしていて、少し慌てん坊で、よく祖父に怒られていた。お婆ちゃんのくせに祖父に怒られて舌を出すもんだから、それが下品だと言ってまた祖父に怒られた。僕は祖母が舌を出す仕草は下品だとは思わず、逆に可愛いお婆ちゃんだと思っていた。
 
 祖父母は家の中でダックスフントを飼っていて、僕たち兄弟は追い回して遊んだ。ジョブズにしてみればいい迷惑だっただろう。ダックスフントはジョブズという名前だった。
 ジョブズは散歩が好きで、朝夕は近所をぐるりと散歩させなければならなかった。僕はよく祖父と一緒にジョブズの散歩についていった。
 
 犬の散歩には、祖父との思い出と、両親に会えないことの思いが刻まれていた。18年前に父が亡くなり、やがて10年の間に祖父も去り、犬も天国に行った。
 
 祖父とジョブスと散歩をして見た街の景色を今見ると、体中をめぐる自分の血液の温度を感じてなんだか身体が温かくなるのだけど、その血液が心臓を通る時に少しだけ心臓をつつかれたような刺激があってキュンとする。懐かしいような切ないような複雑な感覚だ。
 
 いつも必ず通った小さな橋の上に立ちどまってみる。自分を軸にして世界がものすごいスピードで進む。周りの景色がどんどん変化してあっという間に18年の年月が過ぎてしまったかのような錯覚をする。
 
 当時、弟はまだ小さかったので朝の散歩にはあまり一緒にはついてこなかった。
 
 夕方には祖母を加えて4人と一匹で散歩をして、祖母と弟だけ先に家に戻った。
 
 祖父は趣味で畑をやっていた。祖父の家は郊外にあって、家から本の数分、車を走らせると祖父母が耕している畑があった。一反の半分、5畝程の広さしかないのだけれど、そこで大根を作ったり、白菜を作ったり、夏はキュウリやナスを作ったりしていた。
 
 ジョブズの散歩と畑作業を兼ねて、早朝に畑に行くこともあった。そんな時は、弟も一緒についてきた。
 
 畑の隅に木造の小屋が建ててあって、そこに鍬やら鋤やら、農作業に使う器具をしまってあった。その小屋の前でピースをする僕と弟と祖父とジョブズの写真がアルバムの中にある。この写真を祖父以外の誰が撮影したのか僕は覚えていない。祖母か母か、それとも入院する前に、あるいは自宅療養中に父が撮影したのだっただろうか。
 
 治療を終えて父が退院した翌日、僕と弟は、祖父の車で自分の家へ戻った。
 
 自宅に戻るとリビングには父の代わりに知らない老人がソファに座っていた。
 しかし、よくよく見るとその老人こそが父に違いなかった。
 
 抗癌剤の治療によって、肌の色は不自然に白くなり、そしてざらざらと乾いた質感だった。
 髪の毛はこれからどんどんと抜けることが想定されていたので、あらかじめ3mくらいの坊主頭に刈られていた。
 
 笑顔だけがやたら優しかった。
 
 僕は父を見て呆然としたが、弟にはそれが父であることがいつまでも信じられずに、僕の背中の後ろに隠れたままで父の前に出て行こうとはしなかった。
 「恭ちゃん、お父さんだよ。」
 母が優しく語りかける。 
 父はニコニコと柔らかく笑ったままだったが、以前のような生のエネルギーを感じることができなかった。
 
 「慎太郎。」
 父が僕の名を呼んだ。
 そして、僕はようやく目の前にいる老人が父であることに確信を持つことができた。
 
 「お父、さん?」
 父は微笑んだままだった。
 「急に、こんなになっちゃったから驚いたろう?」
 僕はただ、うなずいた。
 
 そして父は僕たちにとても不思議な話をしたんだ。

 「お母さんも、慎も恭も、お父さんが少しだけ魔法が使えることは知ってるな。といっても、どんなことでも魔法でできるわけじゃあない。できることは少ない。その少しだけ使える魔法の一つに未来が見えるという魔法がある。自由に知りたい未来がわかるわけじゃなくて、自分の意志に反して勝手に見えることが多いんだけど、何とか自分でコントロールできないものかとずっと思っていた。だけど未来が見えると人生はつまらなくなるかも知れない。インチキしてテストでいい点数を取ることができるようになるかも知れないし、あたりの宝くじを買うことだってできるかも知れない。宝くじであたりを買うのが難しくても、競馬ならもっと簡単にあたり馬券を買える。それから、もっとつまらないのは失敗をしなくなること。人生は失敗があるからこそ楽しい。迷って、迷った挙げ句に判断して、失敗して、なんで失敗したのか考えて次にチャレンジする。そうやって人は成長し、技術は進歩し、世界は変わって行く。失敗しない人生なんて味気ないし、社会に貢献もできない。お父さんは実はお母さんと結婚して君たちが生まれてくることは知っていたんだ。お母さんと最初に会った時からわかっていたわけじゃあない。何回か会った途中で未来が見えた。ああ、この人が俺のパートナーなんだって思った。だからといって、何か態度を変えたりしたわけでもない。君たちがいずれ無事に生まれてくれることも先に知ったけれど、それでも産まれる時は心配だったし、今でもいつでも気にかけて心配している。」
 
 この話を父がするのははじめてらしく、母を見ると、母はとても驚いた顔をしている。

 「未来は見えることがあるんだけど、だから未来を変えられるということじゃない。見えなくたって未来は変えることができるし、見えるからといって近道はできないのさ。過去は変えられない。お父さんは今の人生を振り返ると、病気にもなっちゃったし、実は後悔はいっぱいあるよ。何かを判断すべき時になんでこの道を選んだのだろう、あっちへ行っていたらどうなったろうと思う人生の転換点をいくつか思い出せる。だけど、結婚して君たちと生活して考え方は変わった。後悔はあるし、もっと成功することもできたかも知れないけれど、俺にとっての一番の幸せは君たちが俺の家族であるということ、だから俺のこの人生が大成功だったんだってね。」

 父の声は健康なときと比べると少し小さく張りがなかった。でもとても優しい声だった。僕たちは耳をすまして父の話を聞いた。
 
 父はソファに身体を鎮め、一度目を閉じてゆっくり目を開けると話を続けた。

 「未来が見えるときはたいてい写真のように止まってる画像なんだ。
 そして未来の写真の中に、自分の姿は見えるところにはいない。自分が見てる画像が目の前にあるだけ。目の前にあるといっても額に入ってあるのでもないし、平面じゃなくて立体的でもあるんだ。ぼんやり考え事をしている時にふっと目の前に現れる時もあるし、夢と間違うような起きがけに出てくることもある。未来はいつまでも眺めていられる。自分が、もういいやと思うと頭の中から出て行くように消えて、現実の画像とすり替わる。」

 そして父はさらに優しい笑顔になって言った。
  
 「お父さんは結婚式を見てきたよ。」

 「気がつくと俺はホテルの宴会場の重い扉の前に立っていた。見たことがある風景だなと思った。お母さんと結婚式をあげたホテルだと気がついた。入り口にある案内板には俺の長男の名前が書いてあった。慎太郎、お前の結婚式だったよ。

 いつもは眺めているだけだったんだけど、その時は少し考えた。この未来の中に入って行くことができるのだろうかと。そして、意識を自分に向けると、自分の存在がそこにあることに気がついた。自分の手や身体を見てみた。いわば、病院から抜け出てきた状態であったから、パジャマ姿だった。写真の画像と自分との間には見えない境界線があることがわかった。大きなテレビがあってその中に入って行く感じかな、身体をかがめて見えない枠を潜る要領で足を踏み出したら未来に入ることができた。

 さて、どうしようかと思った。幸い宴会場の外のロビーで不自然な姿の俺に注目する人は一人も居なかった。未来に入るのは初めてだったからわからないけれど、もしかすると自分の姿が相手には見えないのかな、とも思った。勝手が分からないのでおそるおそる宴会場の赤茶色の重い扉を開けた、光りがすっと差し込んで、正面に新郎新婦の姿が見えた。俺の息子はそれはそれは凛々しかった。そして新婦は羨ましいくらい美人だったよ。

 気配を感じて振り向くと、俺の真後ろにヨーコが立っていた。笑ってるような、泣きそうな眩しそうな顔をしている。子どもが結婚する年で、きっと十何年も経っているはずなのに、ちっとも変わっていなくて、若くて美人なままだった。手には俺のスーツと靴を持っていた。

 「着替えてきたら。」そういってそれを俺に差し出した。俺はそのスーツを受け取ると、靴だけその場で履いて、化粧室に行って着替えて、髪を整えた。髭が少し伸びていたけれど、それは仕方がないなと思った。お母さんは過去の俺が息子の結婚式にやってくることを知っていたんだね。最初は驚いたけれど、全然不思議なことじゃない。だってきっと俺はここに来たことを現実に帰ってから、お前たちにこうして話すのだろうから。

 着替えを終えて、宴会場の前まで戻ってみると、ヨーコが待っていたよ。スーツを着たブライダルのスタッフの男性二人が両側から扉を開けてくれた。そして俺たち二人は自分たちの結婚式であるかのように、中に入っていったんだ。」


#007を最後までお読みいただきありがとうございます。
#008は3/6(月)に配信します。
次回もどうぞよろしくお願いいたします。


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