広島原爆に関する講話・菊川亨先生(愛知県立明和高等学校教諭・当時)

愛知県立明和高等学校の2年生の時、古典を菊川亨先生に教えていただいた。
菊川先生は、特攻隊の生き残りで、第二次世界大戦末期にはいわゆる「マルレ艇」という特攻兵器の部隊に所属していた。「マルレ艇」とは、ベニヤ板で作ったモーターボートに爆弾を積み込み、敵の艦船に体当たりする、という特攻兵器である。当時、先生は16歳。広島の江田島にある基地にいた。

以下は、私の母校である明和高校で、広島修学旅行に行く生徒に対して先生が語られた話の引用である。

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 只今、映画を見せていただきまして、私に残りの時間、話をせよ、ということなので、少し、皆さんに話をします。今、映画にあった広島の世界最初の原爆に、私は幸運というか、不幸というか、めぐり合いました。当時、私は、映画に出てきた人と同じ16才でした。それで、私は広島から少し離れた、江田島の、ある小さな海岸に特攻隊の練習基地がありまして、やがて、爆雷を抱いて、敵艦に体当たりをする為の、練習をしていたわけです。従って、早晩、私も16才でこの世を終わるんだと思っていました。当時、軍国主義教育を受けていましたから、死ぬのは怖いなあと思いながらも、「国のためにぶつかって死のう」と決心して、毎日、練習をしていたわけであります。

 丁度あの8月6日の朝、部隊から命令が下りました。上陸用舟挺(しゅうてい)、御存じですか? 皆さん、よく戦争映画で、ご覧になりますように、敵前上陸するとき、歩兵をたくさん乗せて船のままのし上げてしまうと、船の前が、パタパタと開いて、歩兵がとび出してくる。『地上最大の作戦』の映画なんかによく出てきます。その上陸用舟挺で、広島の宇品港(広島港とも)まで、軍需品を積みに行ってくれ、と言われまして、五隻で、朝出かけることになっていたわけです。出発命令の時刻が7時半です。ところが、その朝に限りまして、私の船のエンジンがかからない、整備兵を呼んできて、エンジンの故障を機関室にもぐってみてもらっていました。他の4隻の僚船は広島の宇品港へ向けて出発し、私の船だけ、その島の桟橋で修理をしてもらっていました。この偶然が、私を今日、ここに立たせてくれた幸運でした。

 それで、私は船から降りまして、桟橋を歩いて、海岸の砂浜に腰を下ろして、空を見上げながら、今日も朝からジリジリ照りつける暑い日だなあと、思わず、帽子を取って、額の汗をぬぐいながら、何となく、あたりを眺めていました。そこへ、あの人類最初のピカドンがやってきたわけであります。「ピカッ」と光った瞬間、私はその熱さに驚いて、パッと砂浜に伏しました。それは、何故かと申しますと、その頃、私の基地は、アメリカのグラマン戦闘機や、P51戦闘機の攻撃を受けていました。ここが練習基地であることはアメリカにすっかり知られていましたから、毎日そういうことに慣れていましたので、光った時、地面に伏せたわけであります。ところが、じっと伏せているんですが、何も起こらないんですね。急降下してくるアメリカの戦闘機の爆音も聞こえませんし、何の音もしませんので、「おかしいなあ」と思って、そうっと首を上げてみるが、まわりは何ともない。「あれ、何であんなに熱かったのだろう」と思って、起き上がった瞬間「ズシーン」とものすごい爆風がやってきまして、海岸に立っていたバラックの安直な兵舎の窓ガラスが「ビィーン」と割れました。そこで、私は本能的に走って、防空壕に飛び込んだのです。

 ほかの兵隊も防空壕に飛び込みまして、その中でじっとしていました。「おい、もしかしたら、アメリカの潜水艦が瀬戸内海へ浮上してきて、直接攻撃を加えてきたのではないか、いよいよ我々もおしまいだなあ。」などと、話していました。いよいよ艦砲射撃だと思って、じっとしていましたが、何ともないんですね。それで、防空壕から、ぞろぞろ、一人、二人と出ていきました。

 「何で、あんなにすごい爆風が起きたのだろう」と思って、あたりを見わたしますと、広島の上空に、今、映画で見たようなあの「きのこ雲」です。あれが、モクモクモクモクと、後から、後から、おばけのきのこ雲のように、湧いてくる。それを見て、「あの雲は何だろう?」、そこである僚友曰く、「あれは、ガスタンクが爆発したんじゃないか」と。まあ、その程度の知識しかありませんでしたから。

 そのうち、連絡が入りまして、「広島上空に、アメリカの爆撃機が『新型爆弾』を投下した。」という。それ以上のことはわかりません。そのニュースが入ってきたときは、広島の街は火の海です。燃え盛る火と煙がはっきりと見えるわけです。「すごいぞ、街中が火事だ! 一体どうなってしまったのだろう?」その日は、街に近づくこともできず、ジリジリしていました。だんだんとニュースが入ってきました。「広島全市に大火災発生。死傷者多数。」

 翌日練習をやめて、二班に分かれ、半分は広島市へいって、生存者を全部助け出すこと。そして、その市民を広島の宇品港まで運んで、そこから、広島湾のすぐ目の前にある似島(にのしま)という島まで移動させよう、というわけです。似島には陸軍の検疫所があったんです。検疫所というのは、外地から帰ってきた兵隊を、検査したり、消毒したりする病院ですね、そこへ運べというわけです。

 残りの半分は似島で負傷した市民を収容する係にまわれ、ということで、ここで、私に第二の幸運が訪れました。私は似島へ行って、助け出された市民を収容する係にまわされました。今、映画にあったような、あの強烈な放射能を受けずに済んだわけであります。私たちの仲間の半分は、翌日から、広島へ上陸しまして、強烈な放射能を受けて、9月故郷へ帰る時になって、脱毛の始まっている戦友もおりました。当時は、放射能の怖さは、何もわかりませんでしたから。

 それで、8月7日の夕方、やっと広島中を駆け回って、生きている人を誘導し、宇品港まで歩かせ、船に乗せて、似島まで運んできたんです。生き残りの人達が似島の桟橋に上陸してきました。それを見た私は肝をつぶしました。これが、この世の地獄だろうか、もし、この世に地獄というものがあるのなら、こういう光景を地獄というのではなかろうか、と思いました。

 とにかく、船から上がってくる人は、生きてはいるが、だらっとして、まともに歩けない。「どうした!」と言って、そばへ近づきますと、髪の毛は焼かれてチリヂリ、シャツは、夏で一枚だけですが、それが焦げている。それに皮膚はみんな焼けている、顔も焼けると唇が上下とも腫れるんです。唇が腫れていたのだけは、今も、強烈に印象に残っています。そして、手を見ますと、夕暮れの中で、指が長いんです。おかしいなあ、と思って、よくよく見ると、手の甲の皮が焼けて、それがつるんとむけて、その皮が爪に引っかかって、とれないんです。皮が垂れたままになっている。それで、私が見ると、指が倍くらいの長さに見えるわけです。

 まあ、とにかく、悲惨な状況でした。それで、その人たちを収容したわけでありますが、ベッドなどはありません。コンクリートの床の上に、ある限りのゴザや、ムシロを敷いて横にさせました。手当が始まったんですが、もう、手当の仕様がありません。私共にそんな医療設備などありません。そこで、我々の部隊に配給になった、赤チンとか、ヨードチンキを塗ってあげるんです。そうすると、冷たいですから、塗った瞬間「ああ、楽だ。ああ、気持ちがいい。兵隊さん、ありがとう!」と言われる。ところが、そのうち、赤チンなどは、すぐに無くなる。塗るものがないんですね。でも、あとから、あとから、負傷者はやってくる。それで、恥ずかしいやら、死んだ人には申し訳ないんですが、仲間と相談して、なぜか、似島に沢山あったペンキですね、ペンキを水で薄めまして、それをハケで、やけどの体に塗ってあげる。ところが、それを薬と思いこんで、皮膚が冷たいですから、「ああ、兵隊さん、ありがとう」と喜ばれる。こんなもの、毒にこそなれ、薬にはならないとは思いますが、やむを得ません。それを何故やったかと申しますと、助け出された人でも、早い人は数時間で死ぬんです。明くる日からも、どんどん死んで行く。どうせ助からない命なら、瞬間的にでも楽をさせたい。そう思って、申し訳けないことではあるが、ペンキを塗ってあげました。

 ところが、どんどん死んでいきますから、すぐ「うじ」が湧くんですね。ハエが止まって卵を産むから、ウジが湧く。生きている人にも、傷口にウジが湧く。そのウジが動くものですから、痛がるんです。「ウジを取ってくれ!」と訴えられるが、ウジを取る暇はありません。死んだ人の処置が大変です。はじめ、山の中腹に深く掘ってあった防空壕へ死んだ人を担架で運び、次々と埋めるんですけど、すぐ一杯になる。入口を土で固めて、全部そのままにしておきます。あとは死んでいく人を30人ぐらい、山にして、重油とガソリンをかけて燃しました。毎日、死体を焼く仕事をやるわけです。そして、骨だけを封筒に入れ、名前のわからない人は推定の年齢と性別を書きました。

 人間の一番燃えにくいのは腸です。腸だけが、プスプスといぶっているものですから、竹の先でつついて、海の中へ捨てるわけです。次の死体を積まなければなりませんので。

 まあ、最初の夜は、さすがに、人間の焼ける匂が顔について、ご飯を食べようと思っても、とても食べる気になれません。手にも、身体にも、人間の死臭が染みて、洗っても洗ってもとれません。明くる日から、人間の生理的欲求には勝てませんので、食べるようになりましたが……。

 そのように、一週間ぐらい、毎日焼きました。中には、赤ちゃんが、ギャアギャア泣くものですから、そばへ行って見ると、お母さんはすでに死んでいるんです。母親は死んでいるが、子供は生きています。子供はお乳を欲しがって泣くんです。仕方がないから、子供をとって、「どなたか、お乳の出る人ありませんか?」と、負傷者の中を泣きわめく赤ん坊を抱いて、走り回りました。 それから、逆に、死んだ子をお母さんが絶対離さない。「腐るから離しなさい。」といっても、死んだ我が子を絶対に離さない。それを引っ張って、奪って、焼かなければなりません。その時のお母さんの、恨めしそうな目は、僕の眼にいつまでも焼きついておりました。

 それから、一番、僕が、耐えられない気持ちというか、もう二度と経験したくないと思ったのは、助け出された負傷者の中には、丁度、僕と同じ位の年齢、つまり皆さん方と同じ16才ですね、当時の中学生や女学生は、全員勤労動員といって、兵器工場へつれていかれ、働かされたわけですが、ある兵器工場で働いていた女学生の一団が被爆したんです。その兵器工場には、ガラス窓が多かったようで、爆風で工場のガラスが、微塵に割れ、吹き飛び、その破片が女学生の体いっぱい突き刺さっているわけです。自分で、その破片を取る力などもうありません。寝ている女学生の一団の一人が、「兵隊さん、兵隊さん」と、必死で叫ぶものですから、「どうしたんだ?」と足を止めますと、目で「破片を取ってくれ」というんです。ガラスが痛いから。

 それで、腕に刺さっている破片を取ろうとしても、滑って、取れません。それで、僕は「待っていろ」といって、ペンチを持ってきて、傷口を両手で開け、ペンチで、挟んで取ってやった。ところが、胸にも突き刺さっているんです。いたがりますから、それを取ってやらないわけにはいきません。想像してみて下さい。16才の少年が、同じ年頃の少女の胸を自分の手で開けなければならない。この悲しみはおそらく皆さん方に想像もつかないでしょう。それから、胸を開けられる少女の気持ちも、おそらく、今の生徒さんには想像もつかないことかもしれません。でも、そんな個人的感傷に浸っている暇はありません。「開けるぞ。」といいましたら、少女はうなずくものですから、目をつぶって、シャツを破いて、刺さっているガラスの破片をペンチで抜いてやりました。 正直言いまして、お互い異性を意識するようになって、初めてみた女性の胸がそういう胸であったということは、生涯忘れることのできない、強烈な記憶であり、原爆に対する一種の怒りでもあり、僕には、つらい惨めな経験でした。

 そして、8月15日の敗戦の天皇の詔勅の日まで、負傷者の手当てと死体焼き作業を続けました。これが8月6日から、15日まで、私が経験した、私の見たヒロシマです。
 最初に申しましたように、当日の朝、船が故障して、広島の宇品港まで行かずに被爆しなかったこと、二つ目に、負傷者を受け入れる班に回ったために、放射能を受けずに済んだこと、ある意味では、私は幸運でした。それでも、内心、白血病になるんじゃないかと、いつも思っていました。数年前、八事日赤病院で、検査をしてもらいまして、「異状なし」ということで安心しています。

 戦後二十年近く経ったある日、私は新聞のある記事を読んでびっくりしました。似の島の古老がこの島の山腹には、広島の原爆で死んだ人々が一杯眠っていると訴え、中学校の先生が夏休みに生徒と一緒に山を掘りました。そして、いくつかの防空壕の跡から多くの人骨が発掘されたという記事と写真でした。手厚く弔ったということで、私もやっと自分の罪が許される思いでした。

 今原爆資料館に、この発掘した時の人骨を、現場で撮った写真が、展示されているはずですので、しっかり見て来ていただきたいと思います。

 あれから46年過ぎました。そして、広島や長崎の事が、過去のできごととして、歴史の中に閉じ込められようとしています。しかし、私は生きている限り、私の経験を語り続けなければならないと思っています。そして、毎年夏休みが近づくと、必ず教室で若い生徒諸君に話してきました。

 どうか、広島へ行ったら、君たちの若い心にしっかりと原爆の事実を刻みつけてきて下さい。眼をそむけないで、しっかり見てきてほしいと思います。

 最後まで、静かに真剣に聞いて下さってありがとう。これで、私の話を終わります。

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(1991年に行われた講演。出所は http://www.bekkoame.ne.jp/~kirium/others/abomb.html)

16歳の少年が、同年配の異性の裸体をこのような形で初めて見ることになろうとは、なんとも言葉が出ない。

ちなみに、私はこの話を聞いた記憶がない。
私の学年は、修学旅行は岡山止まりだった。それに対して、保護者会で「なぜ岡山まで行っているのに、広島へ行かないのか」と抗議した保護者がいて、翌年から広島へも行くことになったらしい。

私が菊川先生から戦争の話を聞くときはいつも、笑える話にしてくださったように記憶している。粋でおしゃれな先生としては、あまり真面目に話すのは照れくさかったのではないか、と思う。
それでも、いよいよ出撃という直前に部隊から実家に一時帰宅を許されたとき、別れ際にお母様の出された水杯が砂糖水であった、という話は泣けた。当時貴重な砂糖を取っておかれたのだろう。

先生が亡くなってから、もう、ずいぶん経った。
いまになって、もっときちんとお話を伺っておけばよかったと思う。
せめて、遺稿集『夢の見過ぎ』(風媒社)を、もう一度読むことにしよう。

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