見出し画像

【メリトクラシーと承認欲求#1】

つい最近、ある人物がホームレスの命を軽視する発言をしたとして世論を巻き起こした。実のところ、もちろん倫理的には問題を感じつつも「綺麗事じゃないか」と感じてしまったところも多々ある。ネットの声もその人物を避難しているけれど私たちもその片棒を担いでいることに気づいているのだろうか。私がそう思ってしまうのも、そのような発言が起きたのにも、背景には社会的にメリトクラシーが跋扈しているからではないかと考えた。

そこで本稿では、メリトクラシーが社会に求められているとされる理由を明らかにし、次稿でその日本への影響を考える。(といっても本稿はもはや自分での考えを深められていないのではないかとも思ってしまう。。論文難しや。。)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◯第1章「メリトクラシーとは」
メリトクラシー(meritocracy)は「能力主義」と一般的に訳されている。抽象的能力を社会の決めた物差しでは測ったとみなしそれで人間を判断するということだ。
これに対して中村高廉はその著書『暴走する能力主義』の中でテストの採点基準の曖昧さやコミュニケーション能力の測定の難しさから、以下のように述べている。

人間の能力を測るということ、とりわけ社会的に求められる抽象的能力を客観的に 測るということが、我々が日常生活の中で感じているほど容易ではない

メリトクラシーの進展を主張する議論に対して、別のメリトクラシー基準を持ち出 せばいつでもその幻想性を描くことができる。

つまり、能力が測定困難な場合、社会的に定義した暫定的な基準(学歴やメダリスト、ノーベル賞や資格)を定義し、使っているのだ。そして暫定的であるが故に揺らぎかねないのだ。

また、中村は「メリトクラシーの再帰性」についても言及している。


抽象能力に対する判断が常に多様な基準を包含しうるがゆえに暫定的なものに止ま り続けるということは、私たちのメリトクラシーはけっしてゴールに到着しないと いうことである。それは必ず「そうでなくてもよかった可能性」を内包し続けると いうことである。そのような状況下では、どのような理想的な状態のメリトクラシーであっても、その能力判断の根拠に強く疑いのまなざしを向けられる可能性を つねに潜在させているのだ。

メリトクラシーは常に恣意的に問い直され続ける。だから、社会がつねに「新しい能力」とされるものを渇望するのもそのさいたるものである。
メリトクラシーは能力主義といいながら、その抽象能力の測定は困難であり、暫定的な基準で社会によって恣意的に判断される。そのためメリトクラシーは自らを再帰的に問い直し続け、「新しい能力」を渇望する世論を巻き起こし続ける。そこで第二章ではその再帰性が社会に与える影響について考える。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

次回は社会に与える影響について書くのだが、なかなかいい説得力はない。。どうにかしなくては。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?