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【鬱日記】ゴミ人間 上

最後のnote投稿は去年の8月でした。
そして今日、1月27日は共テの追試日で本来なら私は試験を解いていました。(共テ本試はコロナ罹患)
その間、何があったかを記録します。躁の時の自分にあてた手紙でもあります。
このnoteを書いていること自体、憚られることなのですが、気持ちの整理がてら書くことをお許しください。私は最低な人間です。同情を買うつもりはありません。ただ何かをしなければならないという焦燥感から書いているのであります。

2023年の8月3日、私は初めて精神科にかかりました。
そのあと、23年いっぱいは月一のペースで通いました。当時は高3で、受験はできるのか、学校は卒業できるのか?という不安でいっぱいでした。鬱が治るのにどれだけの時間がかかるかわからないので親や学校の先生に、わかりません。ごめんなさい。というのが精一杯でした。不登校になったのですが、単位を取らねば卒業できないので、当分は卒業を目標にすることにしました。

学校に行くと、自称進学校なので、友人は猛烈に勉強しているし、また22年の文化祭管理での色々なフラッシュバックに悩まされ、涙がとめどなく大変苦しい状況でした。(文化祭では担当生徒10人ほどが抑うつに見舞われるような体制だったのに、学校側は無視。仕事が多すぎて、授業中にメールやら企画書やら作らねば間に合わない。1日の睡眠時間は4時間にまで減少。)
しかし、鬱になったのは自己責任ですから、言い訳は絶対にできません。三島由紀夫の葉隠入門を何度も読み、自分を奮い立たせながら学校に通いました。

9月上旬に首を括りましたが、死ねませんでした。
病院の診断書は「授業を受けられる精神状態にない」というものでしたが、学校は頑なに「授業に直接出席しなければ卒業できない」と譲らず、本来なら私立学校法で、単位の授与の基準は変えられるので、当時普及していたzoom授業で単位をくだされば良かったのですが、先生方は精一杯やってくださった結果なのだろうと諦めました。
学校の先生との面談の時に、「みんなそれぞれ悩んでる。鬱になるのも一つの学校生活の思い出」と言われ何だかなあと思いましたが、ダメなものはダメ、ということでしょう。自殺未遂しても、なーんにも変わらないんだと知ることができました。ただ、首が鞭打ちみたいに痛くなっただけでした。

年末まで、毎日が辛く、死に逃げもできないとさまざまな本から学んでいましたし、私の自由は一体どこにあるのだろうかと禅問答を繰り返しておりました。
世界的に見れば、私の生活水準は非常に高いもので、素晴らしき自由はあるのです。しかし、思考の檻から出られず、幸せな現状を幸せと思えない自分にどうしようもない軽蔑を感じました。不幸せを幸せと感じ、感謝できる人がいる中で、幸せを幸せと享受できない人間はあまりにも傲慢が過ぎるのです。ですから、せめて家族にだけは、まるで精神不安があると思わせないように努めました。
毎日、ひたすら寝て、読書したり、折り紙をしたりしました。鬱状態になると、頭が錯乱して眠くなり、例えば文章の論理関係がわからなくなったりして、全く勉強ができなくなってしまいました。ですから来年の受験勉強のために、いち早く酷い鬱状態を抜け出す必要がありました。

12月末から1月末まで、療養のために兵庫の父方の祖父母の家に行くことになりました。祖父母に会うのは、コロナがありましたから、4年ぶりでした。祖父母は快く私を迎えてくれました。祖父母の元で、徐々に生活習慣を取り戻し、神社の掃除や畑仕事、お料理、家事の手伝いをするうちに、体力も回復してきて、毎朝、朝食を作ったあと1、2時間ほど自然たくさんの中を散歩しセロトニンの回復を行いました。でも、やはり勉強している同級生らがいるのに、遊んでいる私に対して、厳しいところもあり、いづらくなりました。勉強は半年ほど放棄していたので正月が明けてから、動かない頭だと、言い訳してはいられないので、英語や数学をやり始めました。
「あんた、そんなんでええん?」と、視線が痛く、痛く。
祖父母はとっても素晴らしい、努力家でしたから、努力のできない自分がやるせなくて、これまた私は逃げて、東京に帰ってきました。



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