物語に没入し、活字に溺れる。

本を読むのが好きだ。

生まれてから四半世紀と少しを生き、自分の稼いだお金である程度は娯楽を楽しめるようになり、人並みに様々な物や趣味に触れてきたものの、これだけは物心ついた時から、変わらずにずっと好きなのである。

自分の1番古い読書記憶を思い起こす時、いつも20年程前に遡る。

その当時住んでいた自宅から車で30分程の距離の場所に母方の実家があった。祖母は私が生まれる前に既に他界していたため、そこには祖父と叔父が住んでおり、週末になるとそこで過ごす事が度々あった。

祖父は所謂定年退職の年齢を迎えるまで、板前として働いており、作る料理はどれも絶品だった。そして昼食に絶品の料理を振舞ってくれた後、午後は1番陽の当たる床に丸めた座布団を枕替わりにして寝転がり、司馬遼太郎等の歴史小説を読むのがお決まりの過ごし方だった。祖父は親戚中の誰よりも本好きの読書家だったのである。私の本好きも、祖父の遺伝ではないかと言われている。

祖父の家にはそんな子供向けの絵本や本等何も無かった為、近くにある図書館で本を借り、私も寝転がる祖父の傍でよく本を読んだ。年金が入った直後等はよく祖父が本を買ってくれ、それを読めるラッキーな日もあった。かいけつゾロリのシリーズやわかったさんのシリーズやこまったさんのシリーズ等、学校の図書館では人気すぎて借りる事の出来ない本を、祖父は気前良く買ってくれた。どんな内容であれ、孫が本と名のつくものを欲しがる事が嬉しかったのだと、随分時間が経って、年齢を重ねてから祖父に言われた。

昼下がりの暖かい日差しの中でまったりと本を読む時間は、何よりも幸せだった。祖父は、時間が経つと本を抱えたまま眠ってしまう事も多かったが、その寝息を聞きながら、誰にも邪魔されること無く物語の世界に没頭出来た。今から思えば、あれは本当に幼少期の貴重な、何にも縛られず、心の赴くままでいられる自由な時間だったと思える。あれほど素直に物語を味わえる満足感のある読書の時間は、もう味わえないかもしれない。

学校でも、空き時間があればずっと本を読んでいた。友達もそれなりにいたし、小学生の頃は誘われれば外に遊びに行く事もあったが、そういう日は帰宅してから家で心ゆくまで本を読んだ。

たくさんの物語を味わい、言葉に触れ、一般的に習う勉学や知識とはまた違うレールの上にあるものを、自分の意思で吸収していった結果、きっと言葉の発達は人よりも早かったんじゃないかと思う。そのせいで、年齢の割に難しい言葉を使うと、教師から疎まれた事が何度かあった。しかしそれに全振りしたせいで、理数系の学問は本当にからっきしだったが。

そんな私が初めて勤めたアルバイト先は、書店のレジだった。以降2店舗違う書店にも勤めた事があり(そこでは売り場担当として)、周りの友人からは書店で働き始める度に「収まるべきところに収まったな。」とよく言われた。

祖父とよく本を買いに行く書店のレジのお姉さんが本当に優しい方で、その方に憧れていたらしい。「大きくなったら本屋さんのお姉さんになる!」と周りに言っていたらしいので、やっぱり目標を声に出すのは大切なのかもしれない。

今は全く違うジャンルの接客業で働いているが、もしチャンスがあればまた書店で働きたいと心の中で密かに思っている。理由がいろいろあったものの、3回も本屋を転職しておいて言う事ではないのかもしれないのけど。

今の仕事は楽しいし、好きな物を販売しているのでやりがいもそれなりにはあるが、やはり書店のレジで本を販売していたり、売り場を担当していた時の方が満足度もモチベーションも高かった。タイトルがしっかり分からない本を買いたいお客様が持っている限られた情報だけで本を探したり、自分の子供や友人や恋人に贈る本を丁寧にラッピングしたりする時の心が温かくなるあの気持ちは今の仕事では味わえていない。

1番最初に働いた書店の店長が「書店で最初に働くと以後は書店でのみ働くか、違う仕事をしても結局はまた書店で働くことを選んでしまう呪いがかかる」と言ったことがある。呪いではないと思うが、その通りだと思う。身に覚えしかない。

またさらにここ数年は「本好き」から「活字中毒」という新たなフェーズに到達している。

20歳を超えた辺りから、読める物は何でも読む人間になってしまった。説明書、パンフレット、お菓子等の加工された食品の原材料の表etc.....。「クリームパンとかカスタード系のお菓子ってフラワーペーストって材料入ってる事多いよね。」と何気なく言って戸惑わせてしまった当時の友人の顔が今だに忘れられない。

また、1日のうち1文字も意識して活字を読まなければ心がソワソワし始め、ひどい時は眠れなくなるようになったのもこの頃からだ。完全に中毒である。これを中毒と呼ばずして何と呼べばいいのか。風邪をひき、38度を超える高熱を出して氷枕を敷いて寝ている状態にも関わらず、読みかけの小説を虚ろな目で読んでた時は、我ながら引いてしまった。

もともと小説や活字を読む事はご飯を食べる事と同じだと感じている節があり、身体的な空腹ではなく、思考や心といった精神的な空腹状態を満たすのが私にとっては小説を初めとした活字であると思っている。なので当然文章によってカロリーの高いジャンキーなものや精進料理の様にヘルシーな物などの差もある。小説だけに限らずWEB記事やSNSの投稿文等も全てにおいてだ。これは感嘆符や絵文字の有無だけに限らないものだと、私自身は感じている。

また私は、共感性が人よりも高く(過去に医師からそういう診断を受けた)、物事にかなり没入する気質がある為、小説を読んでいるとその物語の中に完全に入り込んでしまう事が度々ある。ただ入り込むといっても、その物語の主人公に自分を投影させるわけではない。その物語の中の登場人物にカウントされない透明人間としてその場のどこかにいる感じなのである。

例えば、ミステリーの小説で探偵が皆を広場に集めて謎解きを披露しているお決まりのシーンがあるとする。この場合、私はその広場の隅の方に三角座りをして座り、他のキャラクターに一切干渉されない距離でその謎解きを聞いている感覚なのである。言うまでもなく実際はそうではないのだが、それぐらいの集中力と想像力で物語を味わって小説を読んでいる。キャラクターは頭の中で作り出しているので、もともと表紙等で描かれているとものすごく思考の助けになる。

ただ、共感性の高い人間がこんな読み方をしていると、当然のことながらものすごく疲れるし、心をすり減らす。しかもこういう気質をしていながら、どちらかというと暗く、闇を感じる物語を好んで選んでしまう傾向があり、自ら選んで読んだ小説に心を引っ張られ、落ち込んだり、メンタルを弱らせるというめんどくさい事をしてしまいがちなところがある。

いろいろと心の置き所や、物語と良い意味で上手く距離を取る練習をし、今は映画館でその物語の映画を見ているぐらいの距離を取った没入加減で小説を読む事が出来るようになってきたものの、相性が良かったり、没頭してしまう小説はすぐに没頭してしまう。つい最近も、出勤の際の電車待ちですごく相性の良い小説を読んでいた時、普通電車に乗らなければいけないのに、没頭しすぎたあまり間違えて先に来た特急列車に乗ってしまい、気づいた時にはもう降りなければいけない駅を過ぎた後だった。仕事には間に合ったものの、さすがに肝が冷えた。

なのでタイトルや前評判から、重たい話であるという事が分かりきっている小説を読む時は、その前後に短い小説や語彙があまり難しくない、気持ちを軽くして読める小説を挟む様にしている。重たいしっかりとした味ステーキや味の濃いジャンクフードを食べる時にサラダ等のヘルシーなもので胃をさっぱりさせたり、甘いジュースやシェイク等で味変して食べ進めるのと同じ発想や理論だと思っている。

活字が雨のように降ってくるならその雨を傘をささずに浴びたいし、活字が広がる海があるならそこに飛び込んで、抗うこと無く溺れたいと本気で思っている。溺れながら思う存分、活字を堪能したい。

きっとこの思考は変わること無く、私は死ぬまで本好きで活字中毒なんだろうなと思う。年を重ね、出来ることが少なくっても本を読む事だけは飽きることもやめることもないんだろう。幼き頃に見ていた祖父の様に、昼下がりに日差しを浴びながら、寝っ転がって読書を楽しむ事が出来たら本当に幸せだろう。心からそうなりたいと願っている。

今の気質や思考を持ちつつ、物語に没入し、活字に溺れる。私にとって、それはきっと一生涯変わらない日常であり、揺らぐことがない幸せのひとつであり続ける事だろう。

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