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おじいちゃんが教えてくれたこと。

 おじいちゃんが亡くなってから、ちょうど10年。彼は私にとって特別な存在だ。例えば、思わず神頼みしたくなるような時、私はこの人を頭に思い浮かべる。ドイツでの生活が一人で辛かった時も、いつも心の拠り所で、お守りみたいな存在だった。

•はじめに

 私の記憶のおじいちゃんは、武士みたいな人。口下手だけど、人に好かれる思いやり深くて優しい人だった。混じりない綺麗な白髪とコテコテの名古屋弁。父が言うには、若い頃は運動神経抜群で、足が速いことで有名だったらしい。

 私はこのおじいちゃんに、人生において大切なことを、命をかけて教えてもらったと思っている。

•田舎の自然豊かな暮らし

 父方の実家は愛知県の田舎、稲沢というところ。父は子供のころ喘息がひどく、おじいちゃん達は名古屋から空気の綺麗な所へ引っ越した。

 幼少期の夏休みは、姉と2人で新幹線に乗って、この稲沢で数週間過ごすのが恒例だった。今でもふと、名駅のホームで小さな私たちをキョロキョロ探すおじいちゃんの姿を思い出す。この光景が、物心がついてからの最初の“夏の思い出“かもしれない。

•“食“ に触れること

 稲沢は畑と田んぼが永遠に続くど田舎。(まるでとなりのトトロの世界観。)移動手段は自転車で、姉と私はそれぞれおじいちゃんとおばあちゃんの後ろに乗って、毎日4人で畑へ通ったのだった。

おじいちゃんとおばあちゃんの畑には色んな野菜があった。キャベツ、きゅうり、じゃがいも、トマトなど、他にも沢山育てていた。「孫たちに身体にいいものを食べさせたい」と、定年退職後に二人で畑を始めたらしい。

そういえば、東京の実家に畑でとれた野菜が一年中段ボールで送られてきていたなあ。(いま思えば、こんなにありがたいオーガニック野菜の無料定期便はない。笑)

 畑仕事をお手伝いしているうちに、土には虫がたくさんいること、スイカは木じゃなくて地面にできること、赤色しか見たことがないイチゴは初めは緑色をしていることを知った。

軍手をして、水を運んで、臭い肥料を混ぜて、シャベルで耕して、食べ物が出来るまでがとても大変だということを体で学んだ。

 畑でとってきた野菜をおばあちゃんと一緒に
料理して食卓に並べると、畑仕事の疲れも手伝って普段の何倍も美味しく感じたのを覚えている。

•おばあちゃんとの、夫婦の絆

 高校生の時だった。英語の授業中に、突然担任に呼ばれた。 

「お祖母様が倒れたって。」

私はすぐに早退し、母と名古屋行きの新幹線に乗った。

脳梗塞だった。

残念ながら、病室に着いた時にはもう私の知っているおばあちゃんではなくなっていた。

 おばあちゃんは脳死の状態で、約1ヶ月間自発呼吸で生きることができた。その間、おじいちゃんは一日も欠かさず病室に通い、面会時間の開始から終了ぎりぎりまで、ずっとおばあちゃんのそばを離れなかった。

 私たちが週末に名古屋に来ると、綺麗好きだったおじいちゃんの家が、お惣菜のゴミで散らかっていた。自分の生活はそっちのけで、毎日コンビニ飯を食べ、ずっと病室を離れないおじいちゃん。精神的に参ってしまったのでは、とみんな心配していた。

  そんな心配とは裏腹に、おじいちゃんはとても冷静だった。彼が通い続けていた理由は、植物状態のおばあちゃんが目覚める奇跡にすがっていたのではなく、「亡くなる瞬間を看取ってあげる」という夫の役目を果たしたかったからだった。

 お葬式で、喪主を務めたおじいちゃんは泣かなかった。おばあちゃんの遺影を抱えて、まっすぐ前を見ていた。その強さがとても印象的だった。

「頑張れ」と声をかけ、おばあちゃんの手を握る。
病室で見たその背中が、当時16歳の私に想像し難い二人の絆を語っていた。

•他人への思いやりを忘れないこと

 数年後、おじいちゃんは体調を崩した。

「1人で田舎に置いておけない」と、父が無理矢理私たちの住む東京へ連れ帰り、着いたその日に家から徒歩10分の大学病院へ連れて行った。

聴診器を当てるなりお医者さんは顔をしかめた。
「…一体どうやって歩いて来られたんですか。」というお医者さんの言葉を今も覚えている。

 検査の結果は、進行しきった末期の肺炎。
溺れている時くらい苦しかったはずなのに、ギリギリまで我慢して言わなかったのだ。車椅子を用意され、即日入院となった。

 大学生だった私は、その日から毎日病室へお見舞いに通った。おじいちゃんは呼吸器マスクをつけながら、少しだけ話せた。ベッドに突っ伏して寝落ちしてしまう私に毛布をかけて「のりちゃんが風邪引いたら困るでね」と私の心配ばかりしていた。

 数週間後、おじいちゃんは自発呼吸が不可能になり、喉に管を入れ、機械につないで呼吸する手術をした。もう完全に喋れなくなってしまった。

私は変わらず毎日おじいちゃんのベットに張り付いていた。ずっと観察していると、看護師さんが何か作業してくれる度に、コードや管が繋がれた右手を挙げて(ありがと、ありがと)の仕草をしていることに気づいた。

もはや指一本動かすのもしんどい状態だろうに、「ありがとう」を言わずにはいられない人なのだ。

•誰かに感謝される人生を送ること

 4月の終わり、1ヶ月頑張ったおじいちゃんに限界がきた。平日の午前中、たまたま休みだった母と私は「そろそろお見舞いこっか」なんて話していた。

突然病院から家の電話が鳴り、母は受話器を取ってまもなく、私に向かって叫んだ。

「おじいちゃんもうダメだって!あんた、走って!」

一瞬で事態を察知した私はスニーカーをつっかけて、家を飛び出した。

 家のドアからおじいちゃんの病室まで約800m。陸上部だった私は、自分がどれだけ無謀なペースで走っているか感覚でわかっていた。公園の真ん中を突っ切って、駅前の道は歩行者がちらほらいたが、異常な猛ダッシュの女子大生に、歩行者がみんな次々と脇にどいてくれた。

 大丈夫、おじいちゃん譲りの足の速さだ。母を遥か後ろに残し、とにかく走った。

3分もたたずに病室へ転がるように到着すると、
おじいちゃんはまだ生きていた。

 部屋の中で、異常を知らせる複数のアラームがガンガン鳴っている。一目散でベッドへ飛びつき、アラームの音に負けない大声で、おじいちゃんに言葉をかけた。

大量の涙と共に溢れ出てきたのは、

「ありがとう」だった。

聞こえるように、駆けつけられなかった父と姉の分も、と何度も何度も繰り返した。

少しして母も到着した。いつも鈍臭いのに、彼女も全力で走ってきたのがわかった。

お義父さん、もう頑張らなくて大丈夫だからね!

おじいちゃんは、ずっと苦しそうに開けていた口を閉じて力強く頷いた。最後の力を振り絞り、母と私の言葉に応えてくれたのだ。

19歳の春、生まれて初めて人の命が終わる瞬間を見た。

•おじいちゃんが教えてくれたこと

 大人になった今振り返ると、稲沢の田舎で過ごした子供時代の夏が、“自然を想う感受性“や“食への感謝の気持ち“を育ててくれていたと思う。

 おじいちゃんが姉と私に当然のように教えてくれていたことは全て、今の社会で必要とされている「食育」そのものだった。

家族を愛し、最期まで他人への思いやりと感謝の気持ちを忘れなかった、誰よりも強くて優しいおじいちゃん。

人生が終わる時に、誰かに心から「ありがとう」と言ってもらえる、

そんな彼のような人間になりたいとひっそり願っている。



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