おひとりさまで祖父の法要を執り行ったよ
こんにちは〜。
日々の備忘録や旅行の記録など、インスタではあげにくい長い文章をゆるっと書いていこうと、新しくnoteを作りました。
末長くご贔屓に。
家族が減ってゆく
祖父の27回忌の法要が先日行われました。
参列者は、まさかの私ひとりよ。
わたしひとり。
もうちょっと歳とってたら結構ある話だろうけど、50歳目前という年齢を考えると、なかなかレアな経験だよね?
そしてね、法要と精進落とし含めて意外と快適だったから、書き残したくなったのだ。
それにしても・・・
小さい頃には思いもつかなかった、私ひとり参列の法要。
父も弟も亡くなり、母は存命だけど心身ともにバランスを崩してるから、ほとんど会ってないのだ。施主は母だけど法要には参加しないそうで、祖父に愛された私ひとりの参加と相成りました。
祖父の思い出
ある地域の殿様と言われていた、明治生まれの我が祖父。
それはそれは気難しい商店主で戦後働きまくって財を成し、こだわり抜いた店構え、慎重すぎるくらいの経営の人だった。
曽祖父がお酒で店を潰したから、きっといける口だったんだろうけど、さすが明治の人、意志が強くお酒をほとんど口にしなかった。会席の食前酒くらいしか見たことない。
実は、父が養子だったから、私は祖父と血がつながってないのだ。
初孫は女の子の私。祖父が赤ちゃんを抱くか抱かないかで賭けしてた人もいたくらい、私の誕生は話題になったそう。
赤ちゃんなんて抱く訳ない、しかも女ときては、跡も継げない。
なのに、私はあっさり祖父に抱っこされました。
難しい分、心の中はピュアだったから、赤ちゃんの純粋さに惹かれたんだろうなぁ。
幼稚園や学校から帰るとまず祖父に帰宅の挨拶に行き、そのままおやつを食べて一緒にテレビを見た。
遠山の金さん、太陽にほえろ、水戸黄門などなど、なつかしいなぁ。ボクシングが好きだったなぁ。
明治の人にはめずらしく週末毎に手料理を作ってくれ、年に数回はおしゃれして銀座に連れて行ってくれ、高級な料理を食べさせてくれるハイカラな人だった。
しつけはね、それはそれは厳しかった。
とんでもなく気配りと心配りができた人だったのでよくダメ出しや叱責を受けたけど、祖父のこと、なんだか理解できた。
愛情が深くて細やかすぎて、気がつきすぎて、まわりと摩擦が起きるのよね。。。私は祖父と通じ合えてる気がしてた。
いざ法要の日
法要後の自由がきくから喪服ではなく黒いワンピースを着て行った。気楽過ぎて数珠を忘れ大あわてでその場で買うというハプニングも。
祖父よ許してね。
法要中は祖父に無条件の愛を注いでもらったことに感謝して、しみじみした。
法要後、卒塔婆を若い修行僧に持ってもらい、私は大きなお花を抱え、のんびりおしゃべりしながらお墓へ。能登から移転してきたお寺なので、能登の被害を教えてもらったり。
お墓での若い彼のお経は心に沁み入った。
「心洗われました」と伝えると、なんと彼は弟の葬儀と四十九日に来てくれたお坊さんだった。
大きなお寺で同じお坊さんが担当することはまずなく、どうして三回も続けて来てくれたのか謎だけど、ご縁に感謝。
「身体に気をつけてくださいね」と声をかけ立ち去っていく彼。ううむ、立派なお坊さま。
すべて終わると小腹が空いていた。
祖父の食べたいものを探ると、ワンタン麺だそうだ。よく一緒に食べたなぁ。
駅前に出て見渡しても、小洒落た中華は見つからず、日高屋のラーメンと餃子でご勘弁いただくことにする。
精進落としだもん、濃い酒が飲みたい不埒な孫娘。
きゅっと紹興酒をひっかけた。
なんだかんだ言って一家の代表での参加は気が張る。
のんびりしようと温泉へ。
血縁を超えてゆけ
お湯に浸かりながら振り返った。
家族が亡くなり、残る家族とも疎遠になった。
シンプルに不幸だ。
ここにフォーカスすると不幸が服着て歩くことになるし、常に天涯孤独の一歩手前みたいな悲壮感がつきまとう。
家族とか血縁にこだわるのはやめよう。
こだわったところで何もいいことがないもん。
大局を視る視点に変えると、祖父や、お坊さんのように私のことを大事に考え想ってくれる人がたくさんいる。
法要も、お坊さんのおかげで心温まったし、気楽で意外とよかった。何事もやってみると視点が変わるね。
最後に残されるだろう私には、やることがたくさんある。
これから一人で法要を執り行うのは当たり前になり、母が亡くなったあとはタイミングをみてお墓を売り、永代供養の手続きに入るんだろう。
もちろん子どもの頃はそんなつもりじゃなかったから、びっくりしてるけど、少しずつこの状況に慣れてゆくのだろう。
この数ヶ月、いろんな人に支えてもらった。
ありがたいなぁ。うれしいなぁ。
人とのつながりを、かけがえのないご縁を大切に私らしく生きていきたい。
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