見出し画像

アフリカの優しさってこんな感じ?

 思い出を振り返って、月日が経っても色褪せないのは結局「人の優しさ」なんだとしみじみ思う。今回は、ずっと若い頃、私が触れたアフリカ(の人たち)の優しさについて書いてみようと思う。

 2003年の冬。当時、私はイギリスのとある大学院の社会学部に通っていた。留学先の課題論文の提出は、学部の事務局に自ら持ち込む必要があった。あの日も、あいもかわらず締め切りギリギリの時間に課題論文の提出のため学部を訪れた。ところが受付にスタッフがいない。まだオフィスアワーなのに、全員出払ってしまっているようだった(イギリスらしい)。

 提出の締め切り時間が迫っていて狼狽する私に、声をかけてくれたのは見知らぬ黒人女性だった。アフリカ南部ナミビア出身の留学生の彼女は、私が事情を話すと、一緒に学部内を歩いてスタッフを探してくれた。しかしスタッフは一人も見つからない。仕方なく応接室のソファに二人で腰を下ろした。すると、彼女はおもむろに昼食用に買ったであろうフライドポテトを袋から出して、その半分を私に分けてくれた。

「食事を“等分”に相手に分けるのは、私たちの文化。気にしないで召し上がって。あなたは、それを全部食べて、彼女たちが戻ってくるのを待っていればいいのよ」

 なるほど、そのとおりだと思った。あたふたしても仕方がない。私は今、目の前にあるこのポテトを食べてりゃいいんだと。もらったフライドポテトを一本一本、口に運びながら、さっき出会ったばかりの彼女の優しさに泣きそうになった。

 堂々と落ち着いた彼女の存在が心強かった。悠然としたアフリカ大陸。その大自然の風景に思いを馳せた。そのうち、私の頭の中では、紀行ドキュメンタリー番組「グレートジャーニー」出演の探検家、関野吉晴さんの言葉が浮かんできた。

「みなで分け合う」

 “食料の分配にこそ、私たち人間の根源や原点がある”というような主旨の話をされていたのを思い出した。さまざまな民族や国のあるアフリカ大陸に住む人達を一括りにはできないと思うが、ナミビア出身の彼女は、そのことを自分たちの文化だと言って、当然のように行動してみせてくれた。

 アフリカ(の人)の優しさってこんな感じと納得している自分がいた。もう一人忘れられないガーナ出身の留学生がいたからだ。ずいぶん昔の話で名前は残念ながら忘れてしまった。40代くらいの男性留学生で、いかにも陽気な雰囲気の恰幅のよいおじさんだった。

 ある時、“痛みの社会学”という興味深い授業の一環で、ロンドンのミュージアムにスクールトリップ(校外学習)に行くことになった。私自身は、一人でロンドン行くことはそんなに苦だとは思っていなかったのだけれど、その彼から授業の帰りに声をかけられた。

「典子は、誰とロンドンに行くの?」
「一人で行くよ」
「一人?絶対だめだ、危ないよ。ロンドンは危険な街だ。女性が一人で歩くような場所じゃない。僕たちと一緒に行こう」

 授業以外ではまだほとんど話をしたこともなかったが、半ば強引に彼の仲間のロンドン行き御一行に私を加えてくれた。道中、彼はまるで大家族のお父さんのような眼差しで私たちを気遣ってくれた。単身留学中の孤独な身としては、彼の温かい親心が心強くて身に染みた。

 私の出会ったアフリカ出身の人たちの優しさは、分け隔てなく、まるで家族のように受け入れてくれる寛大さだった。

「みなで行動し、みなで分け合う」

 自律や個人主義という価値観を重んじて脇に置いてしまっていた、人間の根源的な喜びや命の原点を振り返るきっかけとなった。

 ロンドン行きの道中で、ガーナ出身の彼は私に何度もこんなことを言った。

「日本人は本当に素晴らしい。勤勉で尊敬しているよ。僕の国の問題はね、国民が働かないことなんだ。困ったもんだ。ただ、そんな僕たちにはね、太陽って宝があるんだ。太陽は、本当に宝なんだ。一番のね!」

 まだ見ぬ赤道直下の太陽を、私はいつか見てみたいと思った。彼らのあの大きな優しさの根源を感じられる気がして。




この記事が参加している募集

一度は行きたいあの場所

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?