ヴィンテージ:1
廊下の隅。職員出入り口の近くで彼女はデッサンをしていた。俺は何気なく声をかけた。
「こんなとこで何してんの」
彼女は一言。
「デッサン」
そう答えた。
イーゼルには横40センチ縦は1メートルろどのキャンバスを乗せていて、彼女は職員通用口のガラス越しに見える四角に切り取られた景色を見ながら、都会の喧騒の中に映るささやかな混沌を描いていた。
「何でそんなん書いてんの」
「別に」
「郊外の学校の庭と道路見て、渋谷の電柱に寄りかかって吐いてるガキ描くやつなんていないだろ。ふつう」
「ここにいるじゃん」
その時初めて俺の顔を見た。ボンヤリした表情で特になんでもない感情のかけらもない表情で俺の顔色を見つめた。そんなアンニュイな反応に戸惑って止まった会話の穴を埋めたくなって適当に話題を振りたくなった。
「上手いよな。見てもない景色を描けるとか凄いじゃん。天才なんじゃね」
「天才でもない。昔、そっちの方に住んでたの。その時の思い出。ここに居ると思い出すんだ。やなコトとか無かったことにして描けるからいいの」
「そんなもんなんか。俺にはわからないわ」
「清原、まだやってんのか」
担任の早坂がいつの間にか隣に立っていて言葉をかけた。
「先生。どうだろ。上手く書けてる?」
早坂は腕組みして10秒ほど考え込むと、投げ捨てる様な言い方で、
「いいんじゃないか。お前らしくていいよ」
その言葉を聞くと清原は笑窪を作って、
「ありがと」と、それだけ言った。そのまま視線をキャンバスにやって硬筆の鉛筆を動かし始めた。
「影が荒いぞ。夜中なら電灯の灯りしかないからそんな印影できないだろ」
「コレはこれでいいの。やなコトと楽しいひとときのアンバランスを描きたいから」
「あー。素人目線で申し訳ないけど、俺もコレでいいと思うし、この絵、好きかも」
「ならこれで決まりで」
清原は早坂を見つめながらボソリ呟いた。早坂は俺をキッと見つめると、
「ならこれが正解ってことだな」
そう言って一瞬俺を見つめて、関心が失せた様にフラフラとその場を後にしていった。片手を上げて、あんま遅くなんなよ。それだけ言ってその場を後にした。
「なぁ。お前って天才だよ」
「だから、ちがうって」
「早坂って藝大出身だろ。それが認めてんだから、お前は特別なんじゃなんじゃねえの」
その言葉を聞いても相変わらず筆を動かしたまま、無感情な声色で、
「才能なんてないんだって。私はただ運が良かっただけかも。ちょっと人と違う感じの生き方してきて、でもこんな穏やかな場所で生きてられて、こうやって絵を描けてる。その恩返ししなきゃって描いてるだけかも」
その言葉を発した彼女の背中は凛とした意志と、真逆の負の重みを感じた。
「それってさ。窮屈じゃねえの? 描き続けなきゃみたいなさ」
「それは、なんで生きてんのとか、なんで学校来てんのとかそんなのと一緒でしょ。考えても無駄じゃん。ここに居るからここでやるコトしてるだけでしょ。未神くんだってそうやって生きてるかなって感じでしょ」
俺はわかんなかった。なんでとか考えた事もなかったし。
「そんなの考えた事もないわ」
「なら、それが一番平和だって」
彼女は俺の顔を見て言った。
「早坂先生が描くことを許してくれてなかったら、私は学校辞めてた。どうせ取り柄なんてないし。だからさ。期待してくれてる人の為に描いてんの。早坂先生がなんでもいいって言うから思い描いたモノを描いてるだけ。いまはそれでいいから」
俺はなんかやだった。自分はないのかよ。みたいな気持ち。でも、複雑になる。俺だって何もないっことになるから。
「ホントにやりたい事とか描きたい事とかないわけ」
少し挑発的な言葉だった気がする。
「ないよ」
「じゃあ俺の為に描いてよ」
「え?」
「俺が感動する様な絵を描いて」
「やだよ」
「でも、オマエの絵を見てて凄いと思っても感動しないからさ。感動したいの。俺だってお前みたいに退屈なんだよ」
「じゃあ自分で描けばいいじゃん」
「自分で描けないから早坂はオマエに自由に描かせてるんだろ。って事は俺も感動させるくらいの絵が描けるってことじゃん」
「なんでそんな理屈になるんだって」
「早坂のこと慕ってるんだろ」
「うん」
「なら、早坂がオマエを自由にさせてる意味を考えろよ。お前は絵の才能があんだよ」
「あったって役に立たないよ。藝大目指してる訳でもないし」
「だから、俺の役に立ってくれよ」
「え?」
「俺の役に立てばお前が絵を描く理由が一つ生まれるじゃん」
彼女の筆が止まった。ちょっと考えさせて、そうかもね、彼女がそう言ってしばらく沈黙が続く。俺は描いてくれそうだなって思った。人の為に何かするなんて考えもしなかったから。何もできない俺と絵を描く彼女の共通点は絵だけだったから。虚無を絵が埋めたから。だから、彼女は絵を描く気がした。なんとなくそうおもった。
_その2
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