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WANTED〈解〉といっても結構独り言のようだけど。

今回の展覧会に来てくださった皆様、普段からSNSを見てくれている皆様、いつも見てくれてありがとう。これからも女の子ばっかり描いていこう!と思いました。

昔から私は現代アートって何?っていろんな人の作品を吸収しながら制作をしてきたけど、コロナ禍に入ってから何となく、もう限界だ!と思って、作品の吸収をやめて、自分の表現をアウトプットすることにしました。マジでこんな楽しいことが合ったんだなあと思う程、お絵かきが楽しいです。さて今回の展覧会「WANTED」は人間の深層心理を暴くような仕掛けをしました。コンセプトと共に、展覧会の様子を記録します。私の作品は美術館や批評家等の関係者に届くことが少ないので、この文章がそんな人達にも届けばいいなと期待しています。

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コンセプトの前に今の状況。だって、作品と生活は続いているから。

コロナ禍に入ってからもう2年をこえましたね。そんなコロナが初めて日本にきて、みんなが緊張していた時に、急に私は今までやってた仕事がなくなりました。いつもそうなんです。世界規模で何かが起こったときは仕事がなくなる。今回も予想はしていましたが、人間って変に信用したらあかんのやなーと心から思って。いつもは何されても、この人はいい人なんだと、どうしても信用してしまうんですが、今回でもうそういう気持ちもなくなったんです。大人になった?そんな感じ。人間関係を諦め、距離をとった生活がスタート。私は東京独り暮らし、無職の女性、という、日本社会ではなかなか難しい立場になりました。しかもコロナ禍!!
こんな状況だし女なら男のもとへ転がりこめばいい、なんて思う人がほとんどだろうけど、私はパートナーと対等な立場で、自立した大人。お金はなんとしてでも稼ぐことにした。でもパートナーから「フリーランスでダメになったら俺がいるから安心して」って言ってくれたのが、とても心の支えになったな。結果挑戦をさせてもらえたから2年目に突入する覚悟ができた気がする。

ただ20年ずっと続けていた制作はストップしました。アトリエを借りていたんですがそれもいかなくなって解約しましたし。とりあえずなんとか生活を立て直さないといけなかったから。アートはやっぱりお金持ちとか、時間のある人とかしかできないものなんだなあと悔しくも、諦めちゃいました。そもそもいろんな美術関係者から「あんたの作品はダメだ」と言われ続けていたので、本当にダメなんだろうなともうやめようとこの時に決心しました。

決心した後は仕事ばっかりしてました。最初は中途採用試験を受けまくりましたが、最終面接まで行ってもアーティストは無理、と言われ全然ダメだったんです。わたしは実は京都の芸大の講師をしてた時、その時もリーマンショックで展示会がなくなって仕事を多くしなければ生活費がまわらなくなり、授業数増やしてほしいと大学の偉い人に頼みに行ったら、「アーティストは無理」と言われたんですよ。今から思うと女だからかもしれないけど。アーティストだから無理ならそうじゃなくなれば生活できる???と名乗ることをやめたときもありますが、案外難しいです。すぐにばれちゃう(笑)でもね、いろんなところでお手伝いさせてもらいなんとか1年生きれました。色々ありましたが1年目は色々大変だったんですけど、周りの支えによってなんとか生き抜けました。とっても感謝です。

2年目からは失業者用の保険も切れます。コロナ禍ですから中途採用もメール送ったところで返事も来なくなりました。でも1年目の自信から2年目もいける!とおもえたので、フリーランスを続行することにし、個人事業主として登録しに行きました。そしてなぜか肩の荷が下りた気がした。そんな時、あー絵が描きたいな、って。今までの人から切られてしまって、今1人になったし、作品にたよらなくてもお金も稼げるし、今までの関係構築はもう諦めて、

「自分の好きな絵を描こう!」

と思いました。

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好きに描きまくった

それが今回のWANTEDシリーズに繋がります。私の人間不信感やコロナ禍における人間関係の間にできた物理的な壁。私の中で何がバーチャルで何がフィジカルで、そしてリアルなのか、そこはすごく客観的になり、作品のモチーフへと変化していったんです。こういう思考の変化がとても面白いなっていつも思う。

ここからコンセプトです。

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一見ただのイラストに見える描かれる女の子たちなんですが、そこだけ見てるんならばあなたはもうはまってしまったのも同然。彼女たちはスパイです。ハニートラップをひっかけてきてます。

会場まで来た人はこの絵を30分ほど眺め、自分の女を、もしくは自分と似た人を捜しました。これは観客が勝手に妄想するんです。この子は俺のことが好きだ。とか、この美人と私は似ている。って。つまり心を映す鏡の役割で。観客の心のうちを暴いていくんです。

私は作品を作るとき、どうしてもアートの文脈が気になってなかなか作品が出来上がらないんですが、何年も苦しんだ後、それに諦めて客観的になって、遊び始めます。観客へのいたずらなんです。こんなの作ったら観に来る人がこうなるんでは???とかずっと考えてる。絵でもそう。だから私は画家ではないんだろうなって思います。絵を描く喜びよりも、人間の反応を楽しんでるから。あんまりにも視線や立場などの意味を持たせすぎている。でも思想が一番大事なんです。

女の子たちは誰を描いたかというとネットにアップされている誰かわからない人達。だれかわからない人の方がいいと思ったし、スパイだからできるだけかわいい方がいい。

展示はほぼ同じサイズの紙に100枚女の子を描いて会場を飾った。(実際は86枚で残りはファイルに入れてみたい人はみてもらった)

紙はアルシュ。絵具はフランス製。こんなところでアートの知識が出てくる。大切に保管してもらえたら200年後もこの作品は今の姿のままだ。

こういう女の子をいっぱい並べる展示は実はよくあるが、対象が変わったように思う。
「あの子もこの子も私である」
というのはセルフポートレート作家が得意とする手法だ。私もその文脈に乗っかって制作してたけど、やり始めたころからなんか違う気がして。

「あの子もこの子も私ではない。私もわたしではない。」
の方がしっくりくる。

今大きめの作品を描いている


実はとてもイケメンな海外のおにいさんから絵具をいっぱいもらった。

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じゃーん。すごい。

頑張って!とメッセージを添えて。私がいた美術業界というのは、全然私を認めてくれなかった気がして、劣等感に落ち込んでいたのだけど、それもとても狭い世界で、場所を変えればいろんな人や美術業界の人がいて、みんな応援してくれることにも気が付いた。これが今回一番の収穫だった気がする。劣等感って視野が狭いほど生みやすいのではなかろうか?あ、これも作品化したいが、どうやってしようかな。とりあえずあたためておこう。

で、その絵具があるので、今は少し大きい紙に女の子を描いていってる。いろんな種類の女の子。でも画面が大きくなると、なんかうまくかけない。実は私の作品は手を加えないほどいい。だのに、画面が大きくなると手を加えやすくなるからこまるんだ。綺麗に描く意識をなくさなければ。筆を大きなものにしたり。自分の絵を描きすぎて落胆し、その中にいきなりいいものが描ける瞬間がでてきたりして作っているときは常に驚いている。エネルギーがすごい。でもいい絵はたいていどう描いたか忘れちゃう。これがこまる。新たに加わるコンセプトは会場と共に出来上がると素敵だなあ。



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