《ドMの晩酌:第五夜》 謎の中国人
ドMのこだわり
私は、ずっと「自分の人生」を生きてこなかった。
というよりも、かなり大人になるまで、そんな生き方があることを知らなかった。
いつだって「相手が望む自分」でいようと努め、二重以上の人格を前のめりに演じてきた。
しかし、「ノリコさん、●●して〜」といった要望にそのまま答えるのは、正直つまらない。
要望に対してそのまま応えたことも無くはないが、そういう時はいつだって「こんなことに時間を費やしてる自分は、死んでいるも同然だ」と思っていた。
では、私が最高だと感じる「相手が望む自分」の演じ方とは何か。
それには二つのこだわりがある。
一つ目は、相手の想像を「超える」ことだ。
相手から頼まれていないことを、相手が想像する以上のことで提供しなければ意味がないと思っている。
二つ目は、相手から「要望される前」に行動に移すことだ。
想像を超えるには、待ちの姿勢なんて許されない。
そして、これらが見事にはまった時、私は最高の快感を覚える。
「私は今、生きているっ!」
そんな言葉がぴったりだ。
そのためには、洞察力と創造力、そして、プライベートの時間を捨てることが必要だ。「ノリコさん、●●して〜」に、「はいはいっ!」と対応する方が、効率的で成功率も高いのかもしれない。
しかし、そんな楽な「相手が望む自分」では、私の追求する「ドM道(そんな道、あるのか)」から外れてしまう。
いつだって心拍数マックス状態で相手を観察し、「Aを出すべきか」「Bを出すべきか」「それとも別の方法があるのか」、悩みながらもチャレンジし続ける。
当然、余暇の時間を自分のために使うなんてことは許されるものではない。
そんな楽な方法を選んでは、やはり「ドM道(だから、何それ?)」から外れてしまうのだ。
これを読んでいる方が、現時点でどのような感想をお持ちか判りかねるが、私は、この「ドM道」に心から感謝している。
なぜならば、この道が私の創造性と数々のスキルを育んでくれたからだ。
しかし、百戦錬磨の私が、唯一、苦戦し続けた人がいる。
それは、私の母だ。
私を飽きさせない存在
何故、私が「母の望む自分」を提供し続けられなかったのか。
その理由は、彼女の要望が私の予想をはるかに超えるものばかりだったからだ。
彼女はいつだって、我が家に思いもよらない問題を運んできた。
私は、何度彼女の娘であること恥じ、恨み、呪ったことだろう。
彼女は「自分がルールそのもの」であり、「私の考えるとおりにならないなんて、おかしいとしか言いようがない」と完全に思い込んでしまっている、我が家のお殿様なのだ。
そのお殿様を相手に、父と、四つ上の私の兄は、とうの昔に思考を停止させ、姿はそこにあるものの心は脱藩状態だった。
今思えば、父と兄の方が賢かったのかもしれない。
しかし私は「この藩をワシがなんとかせねばなるまい」と勝手に使命感を持ち、あの手この手でお殿様のご機嫌をとり、怒りを鎮めてきた。
「おぬしら(父と兄)、こんなこともできないとは何事かっ! ワシを見ておれぃっ!」と、彼らを鼓舞する意味も込めながら。
もちろん、こんな私の姿は、家族の誰からも一ミリだって評価されたことはなかったけれど。
相手から要望されているかどうかという点を除けば、彼女は、前述した私の二つのこだわりの実践者で、むしろ師と仰ぐべきなのかもしれない。
そしてドMな私を飽きさせない存在でもある。
今夜は、そんな我が家のお殿様である母の「想像を超える」エピソードについて、思い出してみることにする。
ご機嫌なお殿様
さて、今夜のつまみは、私の好物のベスト3に入っている「イカの塩辛」だ。
北海道出身の私は、子供の頃からイカの塩辛をご飯のお供にして育ってきた。炊きたてのホカホカご飯との相性は言うまでもない。
昨今、じゃがバターにのせる食べ方も人気らしいが、私から言わせれば、それは邪道だ。それぞれが十分に美味しいのだから、別々で食べるべきだ。
この食べ方と遭遇するたびに、私は「塩辛様、バター様、申し訳ございません!」と皆を代表して、コッソリ謝罪している。
実は、東京に来てから20年以上経つが、イカの塩辛とは疎遠になっていた。
何故なら、北海道にいた時に食べていた好みの味が、東京のスーパーに並ぶ品とかけ離れていたからだ。一言でいうと不味い。
「塩辛っぽさを演出してます」的な謎な後味が口の中に広がる、あの不快感。色々試してはみたものの、どれも私を失望させるものばかりだった。
しかし、そんな私に救世主が現れた。数年前に引っ越してきた町の商店街の魚屋さんが「手作り」で私の求めるイカの塩辛を再現してくれていたからだ。
常連客になってしまったために、売れ残りの刺身を頻繁に買うハメになってしまったことを除けば、この魚屋のおじさんには感謝しかない。
と、こんな勢いでつまみベスト3の残りを紹介したら、いつまでたっても本題に入れないので、それは後日の晩酌で触れることにしよう。
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あれは、私が二十四歳の時のことだ。
色々あって大学四年の1月に上京した私は、意図せず大手求人広告会社に入社し、お殿様の機嫌を気にする必要のない日々を謳歌し、一年の時が経っていた。
大抵の親が安心しそうな国家公務員の恋人もでき(決して、私の恋愛対象への必須条件だったわけではない)、仕事もプライベートもお殿様に何一つ文句を言われることはないだろうと、当時の私は高を括っていた。
私の幼馴染が札幌で結婚式を挙げるということで、千歳市の実家に帰省した私は、家に入るや否や度肝を抜かれた。実家にいるのは、父と母の二人だけのはずなのに、家族以外の人物が、いる。
私の母は、家に他人がいることを心底嫌っていた人物だ。
私が子供の頃、無邪気に友達を家に入れたことがあった。
「あらー、いらっしゃい」くらいのお愛想をしてくれるものだと思っていたが、ヨミが甘かった。母は、相手にバレバレの不快オーラを放ち、私を呼びつけ「汚れる」とか「うるさい」とか「休まらない」と怒っていた。
この声も友達に絶対に聞こえていたはずで、それ以来、母が不在の時だけ友達を家に招き入れ、その痕跡を一切残さないよう細心の注意を払ってきた。
父も兄も当然、このルールを遵守し続けているわけだから、家族以外の人物など、我が家にいるわけがないのである。なのに、いる。
しかも、その人物は父と並んで縁側に腰掛け、こちらに背を向けトウモロコシの皮を剥いている。
この行為は家族や身内といった、相当近い関係性でないと行わない行為だ。
「親戚・・・かな?」 しかし、後ろ姿はその誰にも当てはまらない。
「・・・一体、誰なんだ」
私の思考は限界を超え、意を決して台所にいる母に尋ねると、「ん? ちょっとね(笑)」と、ご機嫌な表情で返してきた。
そのご機嫌さに軽くイラっとしたが、ここはグッと我慢し荷ほどきを始めると、その人物が父と共にリビングに入ってきて、私にこう言った。
「はじめまして、ノリコさん。僕はリンといいます」
流暢な日本語だが、そのイントネーションは確実に外国人のそれだ。
「あ、あ、どうも」
と精一杯の力を振り絞って答えると、母はデザートを運びながら「お父さんのね、会社の後輩のリンさんよ。中国から来たばかりで色々と不便だろうから、よくウチに呼んであげてるのよ。」
と、またまたご機嫌な表情で説明してくれた。
「( なんだ、父の後輩か。しかし、よくもまぁ、母が他人を家になんて入れたもんだ。信じられない)」と、納得がいかなかったが、ここは優等生の私だ。すぐに気持ちを切り替え、そのリンさんとかいう人に丁寧にご挨拶をし、二階の部屋で結婚式に行く支度を始めた。
すると母が私の元にやってきて、「結婚式場までリンさんに送ってもらいなさい。もう頼んであるから。とても良い人よ」と言った。
なんで私が、父の後輩の相手をしなきゃならないんだ。
色々と理由をつけて断ろうとするが、お殿様の決定事項は覆らない。
「じゃ、支度できたら声かけてね」
と言われた直後に、私はピーンと来た。
これは、ヤバいやつだ。
*******
結婚式場に向かう道中、私は自分の得意とする「積極的に楽しい話題を提供し、場を明るくする能力」を封印し、首を90度回転させ、助手席の窓に鼻がつくくらい運転手を見ない体勢を貫き通した。
コイツと絶対に親しくなってはいけない。
リンさんとかいう人は、私が無口だと思ったのか、ポツリポツリと話題を提供しているが全く頭に入ってこない。
私は目的地に着く間、たった一つのことだけを考え続け、恐怖に震えていた。
母は、私をこの人と結婚させようとしている。
結婚式の翌日、私は急いで東京に戻る準備をしていた。
友人の結婚式が大型休暇ではない土日に行われてラッキーだった。
もし今回の帰省が長期に及ぶものだったら、母はどんな計画を立てていたのだろうか。
あまりの恐怖に、荷造りがなかなか進まない。
私がこの状況を全くもって好ましく思っていないことを察知した母は、こう言った。
「ノリコ、リンさんと付き合ってみたらどう? お母さんね、あの人にならノリコを嫁に出してもいいって思ってるの。中国でもトップクラスの大学出のエリートよ。何より、私(母のこと)に良くしてくれる。リンさん、バツイチで、前の奥さんの方に子供が二人いるんだけど、お母さんが養育費を全額出してあげるから。お金の心配もいらないし、本当にいい人だし、間違いないから。ノリコが北海道に戻って、リンさんと結婚してくれると嬉しいんだけどね」
予想が的中し、心拍数マックスの私は、東京の仕事が楽しいとか、ちゃんとした恋人(親に一度会わせている)がいるとか、普通の人なら十分理解できそうな理由を並べたが、母は妙な微笑みを浮かべ、私を見下ろすだけ。
「(いいえ、私の思い通りにしてみせる)」
と思っているのがビシビシ伝わる。
私はそれ以上母と会話をすることを避け、東京に戻った。
私は何度も見てきた。
母がこうすると決めたことは、どんなに社会的に批判を受けることであろうとも、必ず実行するところを
母の洗脳
東京に戻り、平穏な暮らしに戻った私は、この事態からなんとか脱しようと、「母の被害者の会」会員である父にコッソリ電話をした。
父は「もちろん、ノリコが良ければの話だよ」と、まともそうなことを言った。父はいつだって私を助けてはくれなかった。
母に楯突いても無駄なことを、私以上に熟知している人物だからだ。
兄や限られた親族に助けを求めたものの「あー、それは困ったなぁ」という、スッカスカなコメントを頂戴しただけで、これも予想通りだ。
その後、母から時折、催促の電話が来ては、私は前述の返しをし続けた。
その応酬が続くだけで、よく考えてみると、肝心のリンさんとかいう人は私に接触をして来ない。「はっは〜ん。これは母の思い込みなだけであって、リンさんとかいう人は、その気じゃないんだな。そりゃそうだ」と、私は安心しきっていた。
すると数日後から、今度はリンさんとかいう人から電話が来るようになった。
彼は、私と交際できることを前提にした会話をしている。
「アンタ、大丈夫か」
私は、そう彼にツッコミたかった。
当の本人同士が全く会話をしていないのに、どこをどうしたら交際したり、結婚できたりするのだろう。
しかし、そんな想像を軽く超えていくのが私の母だ。
きっと、母は、私もリンさんに相当好意を持っていると話しているのだろう。
母は人のことを振り回す天才だ。
そして、振り回しているだなんて微塵も思っておらず、本人の意思だと思い込める天才だ。
私はだんだんと、このリンさんとかいう人が気の毒で仕方なくなってきた。
彼は完璧に洗脳されているのである。
また新たな被害者が出てしまった。
できることならば、被害を受けるのは家族だけに留めたかった。
「無力な私をお許し下さい」
そう、心の中で彼に呟いた。
それから私は、母と距離を置くことに決めた。
これによって、私の気持ちが伝わることを祈りながら。
実家で暮らした二十二年間、こんなことの連続だった。
私は小学校の高学年から、家を出ることを夢見てきて、やっと今の暮らしを掴んだのだ。実家に帰らなければ、電話に出なければ、逃げ切れる。離れられる。
だが、その後、彼女は私の想像を超える行動をとることとなる。
あの時の彼女を例えるならば、「ターミネーター」というキャラクターがピッタリだ。
今、思い出しただけでも心拍数が上がってきた上に、3缶目のビールが空になってしまった
ということで、この話の続きは、またいつかの夜に。
(イラスト:まつばら あや)
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