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《ドMの晩酌:第八夜》 ドM流試験勉強法

アドラー心理学を都合よく

つい先日、中学1年生になった長男の中間試験なるものがあった。

私の息子は「やりたいこと」で日常を埋め尽くすことに1ミリの不安も持たない人種らしく、各教科に2時間ほど費やしたレベルで、それはまぁ堂々と試験を受けに出かけて行った。

親としていろいろと思うことはあるが、やれと言ってやるわけでもない。

アドラー心理学のアルフレッド・アドラー氏も「子供が勉強するしないは子供の問題であって、親は関われない。」とハッキリ言い切ってくださっているわけで、ここは都合よく、アドラー先生の考えに200%乗っかっていくスタイルだ。
アドラー先生、マジでありがとう。

では、私の中学時代の成績はどうだったかというと、ほとんどが「10」で、3割くらいが「9」だった。

中間試験や期末試験の順位も学年1〜2番が多かった。

しかし、私は勉強が好きだった記憶は全くない。
唯一好きだったのは体育だけ。
できることなら6時間ぶっ通し体育で埋め尽くしたかったくらいだ。

「体育、体育、体育、体育、給食、体育、体育」みたいな時間割だったら超最高だ。できれば長距離走以外の内容を希望する。

そういえば、履歴書に「得意な教科」を記入する欄があるが、私は自信満々で「体育」と書いていた。そんな女子を面接する側はどう受け止めていたのだろう。

んなこと、ま、いっか。


では、私がほとんど勉強せずにあの成績をはじき出す天才だったかといえば、それは全く違う。

そこには歪みに歪んだ動機と、ノリコ流のどうかしている勉強法があった。


あの時の自分を思い返すと、あまりの恥ずかしさに消えてしまいたいくらいだが、そこはドMの私だ。当然しっかり向き合ってみる。

もしも、これから書く内容に深く共感したり同じ体験がある人は、ぜひ私に連絡してほしい。しかと抱き合って、互いの「どうかしてるっぷり」を恥じ、そして笑いながら乾杯したい。


悲劇のヒロインは超過激

さて、今日の晩酌もキンッキンに冷えたアサヒスタイルフリー。それを、ぬるくならないように缶専用のマグにスポッとはめる。つまみは鯵のなめろうだ。

これは近所の魚屋さんで作ってくれたものだが、残念ながら味は私の好みより若干薄め。とはいえ、自分で鯵を買ってさばく気は毛頭ないので、味噌やら生姜を足して自分好みにしていく。

ちびちびつまんでグイッと飲みたい私にとって、この鯵のなめろうは百点満点のつまみである。居酒屋で飲む時にもメニューにあれば必ず注文するが、一緒に飲む人とシェアするために取り分が減ることが、ここだけの話、かなり悲しい。

だからといって「私、ひとりでなめろう食べたいので、あなたも食べるなら別で頼んでください。」とは、ちょっと言いずらい。

これを純粋な「なめろう愛」として受け止めてもらえるのか、かなりの賭けになるからだ。

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では、ひとりで居酒屋に行って鯵のなめろうを食べる場合はどうか。

大抵カウンター席に座らせられ、左右を見知らぬ常連のオジさんにはさまれるパターンになる。そして、よせばいいのにオジさんの話に共感なんかしちゃったりして、「お!ねえちゃん!良かったら俺のボトル飲めよ!」となり、めっちゃ濃い焼酎の水割りをお見舞いされてしまう。

実はこんなこと、何度も体験済みだ。

そして100%、オジさんたちは「俺の酒を飲ませてやってるゼ」オーラを発している。


そんな面倒くさいことことになるくらいなら、「ホームなめろう」がベストなんだろう。


で、なんの話だっけ。

はいはい、私の中学時代の勉強法に向き合うんだった。

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私はなんでも自力でやろうとする傾向がある。

これが、いつ、そしてなぜ芽生えたのかを私なりに分析してみた。


私の両親は、共働きで忙しかったこともあるが、めっちゃ夫婦仲が悪く、それぞれが自分の理想とする幸せを相手にぶつけることに一生懸命で、ぜーんぜん私をかまわなかった人たちだ。

時代的背景から、きっと私の両親も兄弟が多すぎて自分に愛情をかけてもらった感触がなく、「子育てってこんなもんだ」と思っていたことも大きいと思うし、そもそも私が自立心旺盛な傾向を持って生まれてきたから、手をかける必要がないとみなしていたように思う。

そして、私の両親が何度も繰り広げる騒動を仲裁する祖母や親戚たちも「あらあら、困ったもんだ」的な雰囲気を出すだけで(仕方ないけれど)、私は5歳くらいから、誰も自分を助けてくれないんだと思い込んでしまった。


このような環境が、私の持つ傾向性をさらに刺激し
「人って一見まともそうなこと言ってるけど、実は自分のことしか考えていない」「こんな奴らに助けを求めるくらいなら、死んだ方がマシ」
という超歪んだ信念を生み出したのだと思われる。


悲劇のヒロインって、結構過激なんですね。


で、中学時代の勉強法の話だった。


いらぬ苦労

そんなノリコは、なんと「学校の先生に教わらずとも、完璧な結果を残してやる」というワケのわからない茨の道を進む。

学校に行き教室にはいるものの、先生の話をほとんど聞かない。先生から目立たない座席の時や、生徒を当てずひたすら黒板に書いたり話すタイプの先生の授業は、給食袋を枕にして寝る(そこまで眠かったわけではないはずなのに)

授業態度に厳しい先生の場合は、仕方なく「授業」という時間を利用して勝手に別の箇所を自習し、そうでない場合は、落書きや妄想をして過ごしていた。


だって「学校の先生に教わらずとも、完璧な結果を残してやる」わけですから。

それを心配した私の親友(ドMの晩酌:第二夜「ドMのバイト ラーメン屋編【前編】に出てくる、レジに1010円を100万10円と打っちゃう人)は、自分と私の教科書両方を机の上に広げ、大切なポイントにマーカーを引いてくれていた。

しかし、引く箇所が違ったり、グニャ〜と曲がったり、引きすぎてそのページ全てが蛍光一色に染まったりで、モノをキレイなままで扱いたい私の気分を頻繁に害した。

これは、親友自身も自らのポンコツを認め、二人で散々笑い合ってきたことなので、ディスっている行為には該当しない。


このように、なるべく先生の教えがインストールされていない無垢な状態を「あえて」キープし、出題範囲が発表された日から私の戦いが始まる。

授業を聞いていないから「ここ、テストに出るぞー」と、先生が良心的に教えてくれた情報は一切ない。

勝手にヤマを張るなんてことは完璧さから遠ざかるし、それを親友にも聞かない。

よって出題範囲全てをスラスラ書ける、話せる、解ける、「この教科書と問題集、私が作ったんじゃないのか」という大いなる勘違い状態に仕上げていく。

今思うと無駄だらけの勉強法だ。


そんな無駄な戦いをしている私のもとに、例の親友が「ノリコ〜、一緒に勉強しようよ〜」と、気楽な感じで何度もやって来る。

目の前でポテチをバリバリ食べ、「疲れた〜」と言って漫画を読む。

それにも飽きたのか、「私が問題出してあげるよ〜」と、問題と一緒に答えを言ってしまったり、さらには、強い筆圧で私の問題集に答えを書いてしまい、消しゴムで消しても筆跡が残り使い物にならない状態にしてくれる。

結局彼女はほとんど自分の勉強をしていなかったはずだ。

そして、彼女によって大幅に遅れてしまった計画を、深夜にこなすというのが常だった。

今思い返しても、彼女は私のドM道の最高のサポーターだ。


テストは大体、満点に近い結果。
当然だ。

だって、無駄に全部頭に入っているのだから。


そして、親や先生に褒められれば褒められるほど、私はこう思っていた。


「私はお前らなんて全く必要とはしていない。そんなことにも気付いていないとは、愚かなやつだ。フッフッフッ」


怖い。めっちゃくちゃ、怖い。


私は一体、何をやっていたんだろう。

自意識が過剰なあまり、いらぬ苦労をしていただけじゃないか。

私の人生はこんなことの繰り返しだったように思う。

怖さを通り越して、爆笑の域だ。

ノリコ十五歳。

この無駄な勉強法が、高校では全く通用しなくなることに、彼女はまだ気がついていない。

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