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SNSはあなたの社会的位置を露わにあなた自身につきつける。どうする?

FacebookなどのSNSを見ると、自分がこの社会の中で、どの位置にいるかがよくわかる。わかってしまう。

【多くの「価値観」のモノサシを持とう】
お金だけではなく、愛情の深さや多さ、品位、美醜、体型、ものの受け止め方、生き方への姿勢、などなど、人や世の中を測る様々な客観的なモノサシを自分で持っていないと、見ていて辛くなることもあるだろう。
生きていくために持っている多様なモノサシさえあれば「他人と比べる」なんてのはたいしたことじゃないんだが、SNSでは、どうしても遠く離れた赤の他人の有り様でさえ大量に見ることになるから、自然と自分のこの世の中での立ち位置が浮き上がってくるように見える。なによりも、多くの価値観を得るためのモノサシを得るには多くの投資と訓練が必要になる。それがある人がどれほどいるだろうか?

【SNS以前は「地域」でモノを見ればよかった】
SNSができる前は、人は地域で自然に分断されていた(国境とかね)から、地域での自分の立ち位置しか見えないから、それ以外の地域にいる人を気にすることもなかった。「社会」が地域で閉じていた、とも言える。

人にとっての「社会」は、SNSによって地域を越えて広くなったから、地域内の一人の人間から見れば、生きていくために関わったり戦ったりする相手が桁違いに増え、持つ物差しも、より多く必要になった、と言えるだろう。

【より複雑に・より多く。でも無視できない】
それはSNSの無かった時代から見れば「より多くの複雑なもの」を一人の人間の頭の中で処理しなければならないことを意味する。それがヒトにとって「社会と関わる」ことである以上、無視できない。

【「膨大な複雑さ」をみんなが同じようには扱えない】
結果として、現代という時代、人は物事の関係性データの複雑で大きな塊を相手にして生きなければならないのだが、頭の処理能力、記憶容量の限界がそれぞれにあるので、処理しきれないために社会から落ちこぼれる人も、より多く出てくる。

「落ちこぼれた人」も大変だが、落ちこぼれずに必死になんとか生きている人もいる。難なく大量のデータを処理することができる人もいる。それだけのことだ。

【SNSで見える「自分」と「社会」。デジタル・デトックスの需要】
落ちこぼれになってどうしようもない自分がSNSを見れば、わかる。そういう自分を遠く離れた赤の他人と比べ、自分のこの世の中での立ち位置が嫌でも見える。自分のいるところは、社会の中で平均より低い位置にいるから負けているのだ、という自覚ができると「今の世の中から離れたい」と思う。
「デジタル・デトックス」を求めるのは、そういう自分をこの社会の中で発見したときだ。

【「勝者」は作り「敗者」は使う】
結局、デジタルでより広域で多くの人と関わることが要請されるこの現代の社会では、社会の勝者はゲームを作り、敗者はゲームをプレイするしか、生きている意味を失う。前者はデジタル・デトックスの仕組みを作り、後者はデジタル・デトックスに浸る。人数的には前者は少なく後者は多い。

【「デジタル以後」はまだ無いから作るしかない】
おそらく、私たちにこれから必要なのは「デジタル」を抱え込んで発展という幻想の極限への近道(それは崩壊への近道でもあった)を手に入れた人類というこの塊の自己崩壊への流れを変える、新たなデジタル以後の社会の哲学なんだろうな。今はまだそれがない。だから、今から作るしかない。おそらく、後戻りはより早い崩壊への道だ。先に進むしかない。

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