見出し画像

学歴はなくていい?

【学歴は必要か?】
最近、ネットでも「学歴は重要ではないから、学校に行かなくていい」という話があちこちで聞こえる。かと思えば、一方では学歴を非常に重視する、という「制度」「社会的認知」は、私が若い頃より、更に強まっている感じがする。最近は「頭がいい=高学歴」がイメージされるから「頭が良くなる(=学校の成績が良くなる)にはどうしたらいいか?」が、私が若い頃よりも多く語られる場面に出会う。その度に、私などは自分の経験から「学歴と頭の良さって関係ないことも結構あるしなぁ」と思うし「学校の成績が良いこと=頭がいい」ってわけでもないよなぁ、と思ったりする。私の友人でも、「そういう人」はたくさん見ている。

【「頭の良さ」は多様】
実際に社会に出るとわかるが「学校の成績が良い」というのは「頭が良い」ということとは関係がない。「学校の成績が良い=稼ぎも良くなる」とも、必ずしも言えない。頭がいくら良くても、学校の勉強には全く興味がなく、社会的な地位や収入なんて全く気にしたことがない、という人は私の周りには非常に多くて、それでも社会に出れば誰もが認める頭の良い人、っていうのがいる。それで収入を増やす人もいれば、収入とは関係なく好きなことをして満足している人もいる。「頭の良さ」と「収入」も、もともと関係はないよなぁ、とも思う。頭の良さそのものも多様で、数学的な思考が誰よりも得意なのもいれば、暗記が得意で、一度聞いたことは忘れない、一度見たことは何年たっても詳細に覚えている、という人もいる。中には「病的」と言えるほど、ある能力に長けている、という人もいる。もともと能力がなくても好きで好きでしょうがなくて、やっているうちに人よりできるようになっちゃった、って人もいる。学校の成績をよくするのは「どんな科目もまんべんなく全てできる」必要があるから、ある能力がすごい人でも、学校の成績が良いとは限らない。好き嫌いとか向き不向きとかが極端だと、むしろ、そういう人は学校の成績は悪く、学校では「落ちこぼれ」になることも多い。

【日本では。。。】
また、学歴と実力について、日本だけが特殊な社会で、世界は違うんだぞ、みたいな言い方もよく聞くが、外国に行けば、学歴は日本以上に仕事に関係する国や地域は多く、特に先進国と言われる地域で社会体制が整っているところほど、その傾向は強いと言うのが、私の印象だ。ただし、それも「程度の問題」であって、突出した能力や成果がある人には、一般的な「学歴」というモノサシは当てはまらないのは、どこの国や地域でも同じだ。つまり「例外」はどこにでもある、という当たり前の話だ。

【学歴は自分の「ラベル」】
外国に行けば自分は外国人なわけで、外国のその地域の人から見れば、自分は「遠い人」だから、そこから自分を見てもらうには何らかの「ラベル」が重要だ。よほど深い付き合いをしない限りね。だから、中身はともかく「ラベル」になる「学歴」は日本にいるよりも重要になるのは、自分が外国に行ったときは当たり前といえば当たり前ではある。これは日本国内でも赤の他人を見るときって同じだから「ラベル」としてつけておくとその人にあるとなんかいいことがあるもの。それが「学歴」。

全く初対面の赤の他人があなたを最初に見たときに、あなたを今からどう扱うかを決めるもの。それが「学歴」というものだ。学歴ではないもっと目立つものを持っていれば、学歴はあまり大きな意味を持たないけれども、なにもそういうものがなくて「私って普通にカワイイ」「おれって鼻の穴が大きいくらいしか特徴ないしなー」くらいであれば、高い学歴は持っていたほうが良い、ということになる。そういうものだね。学歴ってのは。

【外国では。。。】
日本人のノーベル賞受賞者である田中耕一さんは島津製作所という企業に勤めるエンジニアだが、その受賞者でも、フランスの生物学の名門「パスツール研究所」に行けば「ミスター・タナカ」と呼ばれる、と聞いた。その「ミスター」という言葉の中には「君は学位を取ってすばらしい業績を上げた高学歴のドクターじゃないからねー。なんで君がノーベル賞取れて、俺が取れて無いんだ」という意味が込められていたとか、いないとか。そういう研究所には、学歴だけが自分のステータス、みたいなプライドがエッフェル塔の何倍も高いんじゃないか?というような「研究者」がやはりいたりするわけでね。

例えば、Microsoftのビル・ゲーツは、若いときハーバード大学に入ったものの、中退だ。米国の大学は日本のような感じではなく「入りやすいが、ちゃんと卒業するのは非常に大変だし難しい」と言われているから、大学中退は明らかに「ハズレ」ということだ。日本で言えばほぼ高卒扱い、ということだね。親が適当におカネ持ってた家庭に生まれたんだね、ハーバード行けてうらやましー、親ガチャ小当たり、くらいな感じ、みたいなところかな。同じMicrosoftの前のCEOだった禿頭のおっちゃん、という雰囲気のスティーブ・バルマーさんは、Microsoftがまだ小さな会社だったとき、同社のクルマの運転手だった、という話は関係者からよく聞く。いや、たしかにあの風貌はニューヨークのイエローキャブの(今ならUberの、か)。。。(以下自粛)(←失礼しました)。あくまで自分の印象ですけど。バルマーって大学どこ?いや、彼はMicrosoftのCEOやったんだよな。それで十分だよ、となる。この場合は学歴以上にわかりやすい、本人を公に表現するものがある、ということだな。

【束の間の陽だまり】
自分は高度経済成長期末期の日本で生まれて育った。私の時代の高校から大学への進学率は同年代の3割くらい。日本の大学は大学に入るまでの受験が厳しく、大学入学できればほぼ大学卒業ができた。だから、同年代の3人に一人が大学卒、という時代だったが、大学が増えすぎて、日本の鉄道の各駅に大学がある、と言われ「駅弁大学」とか言われていた。自分がいた私学の大学も東京首都圏の小田急線の沿線にあったのだが、小田急線を新宿から小田原に向かって多摩川を越えると大学だらけだった。別名「小田急文化圏」と言う。この「文化圏」というのは、あまり成績の良くない師弟が人生のモラトリアム(就職までの執行猶予期間)に、つかの間ユルユルの楽園を満喫するために行く私立の名も知らない大学がたくさんあるよな、みたいな意味が込められている感じだね。「なにが文化だよ。勉強もロクにせず、男も女も結婚相手探しに遊んでるだけじゃねーか」みたいな。自分はガリガリの受験勉強が好きでも得意でもなく、それしかすることがないわけでもなく、そんな小田急文化圏の住人ではあった。どこの親も適当におカネがあって、息子や娘には大学くらい行かせなきゃ、オレは中小企業のおっちゃんだけどさ、息子にはオレより少しは良い生活させるために、少々無理してでも大学くらい行かせたいよな、みたいな親が多く、子どもが「今度カノジョとデートでクルマ欲しい」「しょうがねぇな。ちゃんと勉強してるか?買ってやるけど」みたいな、要するにそのあたりは日本国民にとって、日本の高度経済成長期の、日本という地域の束の間の陽だまりみたいな時期・場所だったんだな。

【学校は人生の全てを決めない。適当に付き合え】
親はそこそこ社会的地位も高いのに、このオレはダメなやつだ、と、受験勉強に悩む普通の中学生とか高校生だったときに出会った教育雑誌の編集部。なんとか入れる大学に入ったとき、その編集部でアルバイトをした。その出版社はあの「東大(本郷)の前」にあった。そこで出会う人の中に既に、故人だが、当時は東工大の名誉教授だった遠山啓先生がいた。彼は自分の文章の中で「学校なんてのは適当につきあっていればいい。真剣に考える必要はない」という言葉があった。そうは言ってもなぁ、と完全に納得したわけでもなく、勉強はするにしても中途半端にしかできなかったものの、そう考えると気持ちが軽くなった。「人生80年、そのうち学校と関わるのは1/4の20年。だから、勝負をするとしても、学校出てからでいい」そういう言葉もあった。それを聞いてから、学校は自分の中で軽いものになった。

【今でも「学校とは適当につきあえ」】
後で考えてみると現代はより一層「学校はたいしたことない」というのは、ますます重要なことになった感じがする。そういうことをちゃんと言ってくれる大人は、今は少ない。日本のラッキーだった「高度経済成長期」は終わったのだし、世界が再び戦争に入る可能性もなくはない。円安ではっきりわかる国力低下、デジタル化の世界に遅れる日本、上がる物価、増えない給与。「暮らしにくさ」は日本だけではなく、世界中に生きている人間には切実な問題だ。学校どころではない。この「乱世の予感」のある世界の中の日本という地域に生まれたのであれば、学校に行こうが行くまいが、かなりの緊張を強いられる。しかも学校の制度も内容も、この何十年、基本は変わっていない。コロナで命に関わる時でも、リモートワークも完全にはできていないくらい柔軟性がなく、古い。日本の若者に日本の学校教育が見放されるのは時間の問題だ。「学校とは適当に付き合う」なんてのは、豊かな時代だったからできた。今は「生きるために学校を見放す」時代にさえ、入りかけているのだろう。だからYouTubeで「中学生やめました」みたいな子どもに多くのアクセスが集まる。賛否両論ではあるけどね。

【大切なのは】
こんな時代に生き残るには「なにを身につけたか」が重要だ。でも、身につけるものは人類の歴史の蓄積の上のものでないと意味がない。それは時間を超えて受け継がれる強力なパワード・スーツなんだな。それを身に着けずに「好きなことをするんだ」ってのは、やっぱり負け戦・確定だと思うんだな。基礎はいつの時代も重要だよ。使い方もわからない銃を渡されて、戦場に行け、って言われてもねぇ。自動車だって、1つのクルマの操縦に精通しておけば、他のクルマを使う事になってもなんとかなる。基礎をしっかりした勉強をしておく、ってのは、つまりそういうことだ。「ノウハウ」という表面的なことではなくて、応用が利くように、原理とか基礎をしっかり身に着けておくのがいいと思うけどね。もっとも、どんなボンクラでもなんとかなった「高度経済成長期」に「やり方」だけでフワフワと生きてきた「大人」には、応用が効く原理とか基礎を教えられる人は少ないよなぁ。

学校(特に義務教育)ってのは、そういう「生きるための武器」を手に入れるために行く、人生の最初の場所。でも「それ」が手に入ったら、それ以上のものを望んでもあまり役に立つものはない。それでもしばらくはそこにいなければならないのなら「適当に」付きあったほうがいい。

自分が思うに、そんなところだね。学校っていうのは。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?