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「コロナ」で考える、人という種がなくなるとき

【人は「こう思いたい」で失敗する】
人間は「こう思いたい」という心理的バイアスが必ずある。それを押し殺して、できるだけ客観的に物事を眺めるのは、多くの場合、数字でしかできない。数字で見ても間違えるほど、人の心理的バイアスは大きいものだが、そのバイアスに流されると、正確な実情がつかめず「本当の事実ではなく、自分が信じたい事実」をもとに行動を起こす。そのため、失敗が多くなる。数字で事実をつかんだら、そこから得られる事実を、自分を無にして受け入れ、そこから全てを始める。それが「研究者のメンタリティ」でなければならない。実は経営でも同じだけどね。なぜかというと、経営で相手にする社内にしろ、あるは顧客にしろ、人の集団は大きくなると個々のメンタリティでつながれてはいるけれども「集合」として扱われる「自然」だからだね。水の流れのように、人の集団も同じ法則で流れていく、と考えられる場面も多いからだね。

【人の集団には「サイコパス気質の人」が必要】
こういったところを生き抜くには、メンタリティ的には「サイコパス気質」でなければ、自分がそうとは思いたくない、という数字はなかなか受け入れられないだろう。しかし、数字で得たものは受け入れて、そこから新しいものを作っていく、というのは、やはりサイコパス気質がないとできないのかもしれない。それを受け入れて、自分の頭で考え、行動を起こす「サイコパス気質」がなぜできたかというと、サイコパス気質の人は、人の集団をその外からの脅威から守る「防人」だからだ、と私は考えている。

【「防人役」と「集団を作る役」の2種類の「人」】
人は多くの人の流れに流されることがある。それは、人という種が生きていくための集団を作る方法でもある。しかし、人という種の外側には「自然」という「脅威」が、また別にある。コロナのような、ね。その脅威に直接立ち向かって、種の保存を全うする役目の人のメンタリティは、種の集団の内側にいる「集団をまとめる」種類の人とは違う。集団の外側からその種を脅かす「自然」と対処する「防人(さきもり)」の役目の人がいる。この役目の人は、集団をまとめるメンタリティとは違うものを持つ必要がある。しかしながらこの2つの全く違うメンタリティを持った人種はそれぞれに自分が人類の全てだ、あるいはそれが人というものだ、と思い込む。実際には、それぞれの「違う役目の存在」を認めつつ、うまくコミュニケーションを取る必要がある。それができなければ、人という種は存続できなくなる。自分がそのどちらに属するのか?を常に自覚し、人間社会内でのコミュニケーションを取りつつ、それぞれの役目を全うする、というバランスが必要になる。このバランスを取るのは、失敗の経験も豊富な「高齢者」にならざるを得ない。若い人間では、あくまで時間的な意味で絶対的な経験不足が生じることが多いからだ。

【「研究者」は自然という脅威に立ち向かう「防人」】
「コロナ」という「自然の脅威」に立ち向かうのは、サイコパス気質を持ち、数字を調べ、そこから結論を出し、行動する、多くの人の流れに流されない「研究者」であった。それが現代の、人という種の集団を外部の脅威から守る「防人」だ。

【自分はどちらか?】
そして、一方ではその防人とは全く違う気質を持って、社会をまとめる役割を負うメンタリティを持つ人も必要だ。

どちらが欠けても、人類の先はない。


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