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「複雑なもの」を「複雑なまま」が求められる時代

【ITは膨大で複雑な時代に】
私はITのインフラの専門家なのだが、結構複雑な仕組みでそれは動いている。これは電話などの仕組みも同じだが、特にソフトウエアでモノを制御する時代になって、更に複雑さは加速している。複雑なものをいくらでも作れるので、様々なバリエーションも多くできる。今のインターネットには、文字情報だけではなく、音声、画像、音声を伴った動画、お金、など、あらゆるものが一定以上の安全さでやり取りできるのは、このソフトウエアがいろいろ作られて来たことによる。そして、それは日々複雑化しているだけでなく、膨大な量にもなってきている。そのため、一言で「プログラマ」と言っても、ゲームプログラマにはインフラ構築はできないし、インフラ構築プログラマには業務アプリケーションは作れない。「ITに強い」と言っても、その強さにも違いがあるだけではなく、専門分野でも違いがある。そして、それらは相互に行き来はできないほど、それぞれが膨大なものになってきている。できたとしても、自分の専門分野以外は中途半端に終わることが多い。

【素人に聞かれても】
最近はスマートフォンの普及、その前はインターネットでメールのやりとり、Web閲覧ができる携帯電話の登場などで、ITを専門としない「素人」にも「教えてほしい」と聞かれることが多くなっているのだが、教えてほしい、というので教えると、様々な問題が出てくることが多くなった。しっかり教えてあげても「もういいです」と言われることも多くなった。要するに「教えること」が複雑で大きくなってきたので、受け取る側にそのキャパシティが無い、ということが起きているのだ。自分が専門家でいられるのは、この「差」があるからだが、ITの専門家である自分は他の分野には素人だ。そういうものが積み重なって、世の中ができている。そしてさらなる勘違いは「わからない人でも教えればわかるようになる」という「幻想」が未だにあることだ。だから、教えるほうは、相手がわかるまで説明する。聴くほうも一生懸命聴く。しかし、結局はそれは失敗する。

情報は「送り出し側の能力」=「受け取る側の能力」という等式が当てはまるときだけ通じて、有効になり、それ以外の場合は悪い結果しか産まない。「それ以外」の場合は最良の結果でも「時間の無駄」になる。

【プロレス選手と相撲取りとサッカーの審判】
SNS、そしてその前の時代の掲示板、などの時代からインターネットが普及すると始まったこと。「Aの専門家でありBの素人」と「Bの専門家でありAの素人」が話をする場面が非常に多くなってきたのだ。そこに「Aの専門家でもなく、Bの専門家でもない人=普通の人」が混じって、更に話をややこしくしている。自分が聞いたことをさもわかったかのように発言すると、その専門家がそれを聞いて「違うだろ」と、話を挟む。同じ土壌で、本来は話する必要がない、という人が全く無秩序に交わる場所ができると、プロレス選手と相撲取りが同じテニス場をリングとしてたたかい、勝敗を決める審判はサッカーの審判だったりする、ということが日常的に起きるのだ。そして、それぞれが一家言を持つ「専門家」なので、それぞれに一歩も引かないから、更に混乱する。

【でも「極めた専門家」は少ない】
しかしながら「極めた」と言えるほどの専門家どうしは、お互いの専門が違っても、その知的レベルをうまくマッチングする技を持っている。衝突ではなく、相互理解、あるいはお互いが理解し得ないそれぞれの部分を感じ取って、うまく、お互いの利益にならない議論を避ける、という「名人の試合」ができる。自分の本当の専門があってこそ、それができる。しかし、「名人」と言われるほどの専門家はやはり数が少ない。インターネット上のSNSなどでは、当然「名人」は少数派にしかなりえない。結果として名人から見れば「中途半端な専門家」がお互いに自分のテリトリーを主張して大混乱に陥る、ということも多いのだ。この場面はよく見たよ。

【複雑なものを複雑なまま】
「専門家」というのは、複雑なものを複雑なまま理解し、頭に入れておき、それを必要に応じて表現することができる人だ。そして、今や様々な分野で「専門家」が必要な時代になった。できれば、その専門を極めて「名人」になってほしいけどなぁ、と思う。でも、なかなか全員がそうはいかない。

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