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アートは売り物か?

いわゆる「商業芸術」という、お金にするために作られた芸術は、最初にそれに人が触れるとき、多くの人に「好ましい」「気持ち良い」というポジティブな印象を与える必要がある。作品を「お金を出して買う」という消費者の行動を惹起する必要があるからだ。

【商品としてのアート】
苦くて身体に悪い毒物ではなく甘いケーキでなければ、多くの人はそれにお金を出そうとは思わない。また、作品は作者の思い入れがいくらあって作品を片時も離さず身近に置いておきたいと思っても、お金で買われて作者の手を離れてナンボと言われる。出来上がった作品を愛するあまり、いつも手を加えて手離れが悪いものは「商品」にはならない。

それが「商業芸術」である以上、いくら自分の作品に思い入れがあっても、いつかは自分のもとを離れていくのが前提だ。その作品を手放したくない思いが強くあり、それを手放すときに、なんの方便も役に立たず、作者がその別れのダメージを受けて自らの身を滅ぼすほどのものであってはいけない。

だから、作品は全身全霊を込めて作りすぎてはいけない。それが「商業芸術」である。

【売らないアートもある】
しかしながら、商業芸術を生業としている人間にも、ひょんなことから、そんな商売にならない「怪物」を生み出す瞬間がある。人のしがらみ、資本主義を離れる瞬間がそこに現れる。優れた商業芸術家の多くがそういう「怪物」を隠し持っている。資本主義以前の太古の昔から人が持つ、自らの生きる人間としての存在意義をそこに見出し、日々を生きるための「怪物」は、その商業芸術家の死後に見出されることがあったりする。

流れる時間のその瞬間にのみ存在する芸術である音楽は、一瞬一瞬の時の流れそのものが「作品」であり、その作品はいくら思い入れがあっても、作者の手から放たれたその瞬間に虚空に消えて行くしかない。もともと商業芸術には馴染まないのが「音楽」だが、旧くは「伝承」が再現に使われ、次に楽譜という原始的でdetailが省かれたかたちでの「人に頼らず、人の外部にある」記録方法が生み出され、現在の私たちには「録音技術」がよりdetailの再現ができるようにして、音楽を「商業作品」にしてきた。それでもまだ「音楽」にも「商業作品ではないもの」が生きる隙間がある。

芸術とは、そういうところが楽しい、と、私は思う。

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