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「国際競争しなくていい派」がいる。

【西欧的正義と価値】
元コンサルティング会社の「デイビッド・アトキンソン氏」そして「厚切りジェイソン氏」は日本という地域の米国化で、最近はかなり苦労しているのがわかる。おそらくここまで言っても日本人は「変わらない」。彼らはそう思っているだろう。

【太平洋戦争直後の日本】
思い返せば太平洋戦争で日本という地域に住む人の塊がボロ負けしたとき、敵に1日で「鞍替え」し、それまでの教育をも変え、教科書のほとんどを黒塗りして「なかったこと」にした。その後の戦争断行徹底抗戦のパルチザンも出来ず、その後数十年の時間を経て、争わずじわじわと「日米貿易摩擦」と言われるほどの状況を作って、ある意味において世界を変えて来たこの歴史を見れば、そこに至った大きな流れの底流が、今また大きく動きはじめているのが、この人たちにわからないのは、仕方ないのではないか?と思う。

【あの人のこと】
人の性質として戦闘的で、戦闘の興奮のうちに終える人生を理想とする人のコミュニティは、明らかに現在の紛争を戦うどちらにも共通しているだろう。どこか日本の太平洋戦争時の「特攻隊」のアナロジーがそこに見えなくもない場面さえある。あの橋下徹氏が今回の戦争において「負けてもいいじゃん、平和なら」というのは、実は西欧的な人生観への大きな皮肉だったのではないか?。おそらく大阪の場末の社会や個人を護った弁護士であった彼は「正面からぶつかっても勝てないから、ここはうまく負けて実を取りましょう」という依頼者とのやりとりもあったはずだ。そんな彼から見れば、アトキンソン氏や厚切りジェイソン氏のビジネストークは軽く無視されている感じがしないではない。橋下氏は、あの戦争にボロ負けしたときの日本を、今回の紛争に重ねて思い出したし、その時の日本の庶民の姿を思い出したのではないか?と、私は思っている。

【「自己啓発セミナー」の日本でのエピソード】
自己啓発セミナーというのがかつてあって、今も少々は残っているようだが、それを問題にした書籍は宗教学者の島田裕巳氏が共著で出した「洗脳体験」(1991年)という本だったが、その中で非常に私の興味を惹いた部分があった。

【「負け」を選ぶ】
そのエピソードは、ある自己啓発セミナーでの特殊なシチュエーションへの対峙の場面で「他人の命を犠牲にしても自分だけは強い意思で生き残る」というのがあって、そこで「脱落」した女性の話だ。その脱落は女性が他の人を活かすために、と、自己犠牲で自ら望んだものであって、それはこのセミナーの趣旨とは合わない。セミナー主催者から「その自己犠牲の価値観は間違っていないが、このセミナーの趣旨とは合わないから、ここで受講を途中で辞めていい」という話だった。それは米国生まれの「自己啓発セミナー」の日本的な本質とは相容れない「なにか」が見えた場面だった。そこに重要で何人も犯し難い「西欧と日本の価値観の違い」が凝縮しているように、私には思えた。日本的価値観から言えば「西欧のものの考え方の限界」がそこに見えたように思うのだ。

【やがて大きな対立軸に?】
この思想的な対立、人間観の対立が、やがて大きな対立に発展するのでは?と、最近思う。表向き、派手な対立はなくても、見えないところで静かに対立し、闘争もある。だから「見える部分の闘争」に「負ける」のもまた「美学」で整え、負けた後に世代を超えてじっくりと対峙し、やがて負けたほうが勝ったほうを飲み込んでいくこともある。「盛者必衰」が世の常であり、「諸行無常」と諦め、とにもかくにも生きながらえることが、実は「生きることそのもの」である、という空間と時間の逆転。だから、いっときの勝敗の決定はたいしたことではない、という、そういう世界観がどこかにあるのではないか。「臥薪嘗胆」「リベンジ」、というのとも違う。「勝ち・負け」という対立軸そのものを消失させ、別の価値観から見れば積極的な負けをさえ選ぶ。その精神をより上位の価値観として実践していく。日本人が根底に持っている「考え」には、そういうものがあるのではないだろうか?

身を沈めてこそ浮かぶ瀬もあれ。

一通り、戦い終わってなにかを得るのは、勝った人間だけではないのだろう。「勝っても負けても同じさ」と「それを受け流す」文化。「なにかに勝つ」ことに価値を置かず「なにがあっても生き延びること」に至上の価値を見出す文化。日本はつい80年ほど前に、それを身をもって経験した。どうやら、日本にはまだ「それ」がある。

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