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「自由」を手にするために 〜ジャーナリスト堀潤とプロデューサー若新雄純の「自由」対談を聞いて思ったこと〜

はじめに

僕は、貧困家庭に生まれた。
「不自由」への憤りから、必死に受験勉強した。
出会いに恵まれ、大学にまで進学した。

大学に進学すると、進路の選択肢は無限に広がった。
突如広がる未来の中から、どれを選べば良いのかもわからず、立ちすくんだ。

不自由への憤りから自由を手にしようともがいたが、不自由からどんなに逃走したところで、決して自由にはなれなかった。
乗り越えるべきは、「不安」だったのだ。


このことを改めて考えさせてくれたのが、「堀潤と若新の「自由」研究」という対談イベントだった。
全編はYouTubeで視聴することができる。
https://www.youtube.com/watch?v=iE4V7JSaBLg

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この対談イベントは、「堀潤と若新の「自由」研究ゼミ」というオンラインゼミを公式発表したイベントであり、僕はそのゼミでコーディネーターを務めている。この記事では、ゼミコーディネーターの立場から、対談イベントのエッセンスを個人の見解からまとめてみたい。

対談の概要

堀さんと若新さんの「自由」への取り組みは、対極にあると言える。

堀さんは、香港や北朝鮮、ガザ、シリアといった、今まさに「自由」を巡る戦いが繰り広げられている現場を追っているジャーナリストだ。
若新さんは、全国の企業、地域、学校をフィールドに、自由なライフスタイルはいかにして可能かを探究しているプロデューサーだ。

圧倒的に不自由な環境の中で、「自由」を勝ち取るために命を懸けている人々がいる。
一方で、その「自由」を過去に勝ち取った国には、手にしたはずの自由を感じることができないままに、閉塞感に包まれている人々がいる。

2人の取り組みは対極であるが、共通する点もある。
「フリーランス」という働き方だ。
それは、全ての選択肢を自分で作り、自分で決める働き方だ。
ここに「自由」を手にするヒントが隠されているのだという。

注意するべきは、フリーランスになれば自由に生きれるわけでは無いということである。
自由に生きるとは、自分で選択肢を作り、誰かのせいにするのではなく、自分で引き受けることだ。
「好きに選んで良いよ」ではなく「好きにやっていいよ」と投げかけられた時に、自分で旗を立て追いかけられるかが、自由に生きられるか否かの分かれ道となる。

この生き方には、責任が伴う。
自分の嫌なところをたくさん突きつけられることになるだろう。
その責任を引き受けられるかが、鍵となるのだ。

もちろん、自由は組織に属しながらでも感じることができる。
その組織を自ら選択し、辞めるという選択肢があることを知っているのであれば、その人は自由を感じられている可能性が高いだろう。
また、組織が窮屈になった時、NPOやボランティア団体などのサードプレイスを持っているかも、自由の可能性を広げてくれる。

とはいえ、どんなにリスクを小さくしていったところで、自由な生き方が引き起こす責任には、不安や孤独がつきまとう。
我が道を生きているように見える若新さんも、他者の評価を気にしていないわけでは無いという。
だからこそ、弱音を常に発信し続けている。
堀さんは、弱音を吐き出せる相手を決めて、吐き出しているそうだ。

その意味で、「弱さを受容してくれる環境」がその人の不安や孤独を和らげてくれるのだろう。
自由に必要なことは、強さの表明ではなく、弱さの許諾なのかもしれない。

おわりに

以上が、対談イベントのエッセンスだ。
結局のところ、ある程度の不自由の条件を乗り越えたその先には、「無数の選択肢」という不自由が広がっている。
この困難な不自由を克服するためには、不安を乗り越えていくしかない。

難しい時代を生きている。
学歴も、職業も、家族も。
自分の外にあるものは、何一つ自分の人生を保証してくれない。
その分、自分なりの「自由な生き方」を身につけた時、どんな社会の変化にも対応できるしなやかさを手にできるだろう。

「堀潤と若新の「自由」研究ゼミ」では、自由を愛する2人の講師が、そんな生き方を指南してくれる。

「堀潤と若新の「自由」研究ゼミ」の詳細はこちら
https://community.camp-fire.jp/projects/view/360316

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