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人は、国に住むのではない。国語に住むのだ

これは「メタルギアソリッド5」に出てくる言葉である。

私はこの文を見ながら、ソシュールの「民族をつくるのはだいたいにおいて言語である」を思い出した。なぜなら、言語に即した分離原理という共通点を感じたからである。

民族が出現する以前に、言語は存在した。言語は自律性をもって民族を出現させ、国を作った。そして、国は言語を制約した。本来、東京方言と呼ばれる言語分類が「標準語」となり、地方の言葉は従属する形を取るようになった。つまりは、国が言語を統率することによって、民族をも統率できるようになったのである。政治的な事情が介入してできた言葉の例には、中「国」語と韓「国」語、という「国」挿入するものがある。

閑話休題

野暮かもしれないですが、書き方を口語に変えます。最近、物事の信憑性よりも誰が言っているかの方が重要視されているような気がしてなりません。インターネットやYoutubeにより「個」の時代が訪れ、リテラシーがなくても発言者が力を持てるようになったのです。この傾向自体が悪いとは全く思ってないのですが、聞き手は気をつける必要があると思います。なぜなら、発言者に気を取られてしまうがあまりに、事実確認が疎かになってしまうからです。

私は小学生時代に「なぜ、北極の熊は白いんだ」と先生に問うたことがあります。動物園にいる熊はだいたい茶色だったことから、白い熊の存在を信じることができなかったのです。聞き方が悪かったみたいで、先生は空を仰いでいました笑。最終的には、図鑑で白熊をみることで納得したわけですが、先生が言うから絶対正しいであろうということに疑問を持っていました。

しかし、当時の私はもういません。ある程度の経験がつき、過去の行動結果から決断するに至ったのです。そして、先日までは年を重ねると経験が増えることから、年長の発信する情報も正しいに違いないと思っていました。経験は失敗を少なくすることはできても、数をゼロにすることはできないことを忘れていたのです。

表題に戻ると、国家は言語に力を及ぼすようになり、知名度のある個人は発言力を持つようになりました。私なりの上記の関わり方は以下のとおりです。言語に関しては学び、現地にいくことで歩み寄り、発言に関しては、仕入れる数を増やすことで偏らない考えを持つ。

上記の向き合い方は人それぞれで違うと思います。時には言語を介さない芸術が大事かもしれません。探っていくと面白いかも.....

まとまりがない話でしたが、読んでいただきありがとうございました。

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