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昭和34年(1959年)の海苔養殖、すべて手作業だった

たった、65年前の日本。今とは様子が全く違う。海苔すきは熟練でも1時間あたり250枚。養殖といえども、海苔を作る作業で、どの工程もおろそかにはできない。「漁師」といえども、問屋制家内工業的な作業が必要。地域が共同体というのがよく分かる映像。

  • 1960年ごろまで(高度成長期直前)、日本は農村・漁村が中心であった

    • 水産高校、農業高校で必要な知識、技術を学んだ

    • 大学進学率:1960年前後までは約10%

  • 海苔漁師の船というか舟は手漕ぎ。漁師700人。

  • 1957年の家庭への電気冷蔵庫の普及率は2.8%。1965年に初めて50%を超えた

    • このころ、食品スーパー(ダイエー、ライフ、イトーヨーカドー)が創業

  • 市街地には電柱・電線は確認できるから、明かりを灯すための電気は通っていたと思われる。

  • 伊勢湾台風は戦後最大の台風で、犠牲者も5000人以上。

  • ガソリン・軽油車のトラックが一般的でなかった

  • カミナリ族は普及した二輪車を乗り回す民族。すなわち、そのころの富津では乗用車が一般的でなかったということで、「乗用車は,昭和30年代前半を中心とした二輪車の普及の後を受けて,ようやく35年頃から全国的に普及し始め,40年代の発展した(昭和51年運輸白書)」という記載に合致する。

  • 「座くじ」「本くじ」

    • 予選と本選システム。「座」というのは、本くじを引くための、座り位置を決める、という意味か。くじびきは神事に近い位置づけで、公平性を確保しているのではないか。ある神社では神輿の巡行順を決めるための、座くじ(予選)を引く順番は昨年の巡行順であったという記載があった。しきたり上このようなルールを布くのは、順番・漁場を決めることは真剣な争い事であったためではないか。

  • ちなみに、東京湾の対岸である、羽田沖も海苔の漁場であった。東京港の埋め立てと航路づくりのため、昭和37年に海苔漁場の漁業権の放棄が余儀なくされた。昭和初期まで海苔生産全国一を誇った大田区大森には、令和の時代にも海苔の問屋や小売店が多く残っている。

https://www.youtube.com/watch?v=830GunhZlk0

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