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自転車で巡るまちの声・土地の記憶 〜レポート:いわき語り部と巡る 海のまちサイクリングツアー〜

今回は4月30日に開催された「いわき語り部と巡る 海のまちサイクリングツアー」の体験レポートをお送りします。

こちらのイベントは、いわきの海沿いの地域を自転車で巡り震災の記憶を辿るとともに、いわきの海と街を楽しむツアーとして、いわき語り部の会から小野陽洋(あきひろ)さんを案内人としてお呼びし、開催されたものです。
新舞子ハイツをスタートし、沼ノ内、薄磯、豊間の海岸沿いをいわき七浜街道に乗って巡る約18キロのツアー。一面に広がる青空の下、自転車で風を切りながら海のまちの声に耳を澄ましていきましょう。


快晴の春空の下、自転車乗りたちが大集合!

ゴールデンウィークが始まって2日目の4月30日。いわきの空には、前日の深夜まで暴風雨が降り続いていたとは思えないような、澄みきった晴天が広がっていました。朝9時30分。ツアーのスタート地点は「いわき新舞子ハイツ」です。

新舞子ハイツは太平洋を見渡せるロケーションが自慢の宿泊施設ですが、一昨年の6月にはサイクルステーションが敷地内に新たに開設され、レンタサイクルのサービスを利用できるようになりました。すぐそばにはサイクリングロード「いわき七浜海道」があり、今では新舞子ハイツはサイクリストたちのベースキャンプになっています。

「いわき語り部と巡る 海のまちサイクリングツアー」は、自転車文化発信・交流拠点「NORERU?」の若手情報発信チーム「NORENAIズ」のみなさんが企画し、東日本大震災の記憶を次世代へと語り継ぐ活動をされている「いわき語り部の会」から小野陽洋さんを案内人としてお迎えし、開催されました。

多くの方がご存じであるように、いわき市は東日本大震災の被災地であり、特に太平洋沿岸地域の久之浜、薄磯、豊間、小浜などの地区は津波により壊滅的な被害を受けました。今回の案内人の小野さんはこのうちの豊間地区出身の方で、自らも自宅にて津波被災したものの、奇跡的に一命を取り留めたというお方で、現在はそうした経験を後世に語り継ぐ活動をされています。

一方で、小野さんはいわきの中でも随一の自転車乗り。そしてなんと言っても、地元いわき・豊間を愛してやまない地元ラバーでもあります。いや、むしろ、”でもあります”というよりは、「豊間といえばヨーヨー(小野さんの愛称)」と言われて憚らないほどのお方と言っても過言ではないでしょう。

そんな小野さんの案内による今回のツアーは、震災の記憶を辿るスタディーツアーでありつつ、自転車に乗ることそのものや、自転車ならではの視点から見えてくる新たな街の風景を楽しむこともできる、盛りだくさんの内容となっているようです。

今回のツアーの参加者は全部で20名ほど。首都圏から友人と共に訪れたという方や、地元在住の家族連れなど、小学生から70代まで、老若男女、実に多様なメンバーが参加。ツアー中に参加者同士で始まるコミュニケーションも、なんだか楽しみになってきました。

前置きが長くなってしまいましたが、何はともあれまずはサドルを跨いで、いわきの海へと漕ぎ出してみましょう。

防潮堤沿いの水門に隠された土地のメッセージ

新舞子ハイツからスタートし、一行はいわき七浜海道を南へと進みます。いわき七浜海道は多くの部分が震災後に建設された防潮堤の上を走っているため、すぐ目の前に雄大な太平洋を望むことができます。ここを20人の色とりどりのサイクリストたちが駆け抜けていきます。

新舞子ハイツから約1キロほど進んだところで、最初の立ち寄りスポットに着きました。案内人の小野さんから説明があり、ここは防災のためにつくられた「弁天川水門」とのこと。

沼ノ内地区を流れる弁天川が太平洋へと流れ出る場所に巨大な構造物が聳え立ちます。この弁天川水門は震災後に新たに造られた水門で、防潮堤とともに沿岸の地域を津波の被害から守るためのもの。各地の河口部分には、震災前からこうした水門が設けられていましたが、人力で開閉を行う構造だったために、東日本大震災では門の開閉作業にあたっていた消防団員の方などが津波の犠牲となるケースが多発しました。そうした教訓もあり、この弁天川水門をはじめ、いわき市内で震災後に建造された水門は、無線通信によって遠隔地から門の開閉操作をできるようにしたとのこと。その容姿からはあまり多く語られることはありませんが、水門一つとっても、こうして震災の記憶と教訓が浮かび上がってきます。

この弁天川水門から次の目的地へ向かう去り際に、小野さんから、「弁天川」という名前に注目してほしい、とひとことメッセージが。どうやら今回のツアーを巡り終える頃にはその名前の意味がわかってくるようです。頭の片隅にしまいつつ、次の目的地へと舳先を向けます。

沼ノ内漁港から、灯台が見える薄磯エリアへ

次に向かったのは、沼ノ内漁港。これまでは沼ノ内地区を走ってきましたが、この沼ノ内漁港を境に南側は薄磯地区となり、塩屋埼灯台が見渡せます。

沼ノ内漁港からすぐの場所にある県道沿いには、沼ノ内漁港の位置を示す「豊間漁港 沼ノ内地区」の看板があり、そこにも塩屋埼灯台を模したイラストが描かれていました。この地区の人たちにとって、塩屋埼灯台はまちのシンボルであり、誇りなのです。

沼ノ内漁港を出て薄磯地区へ入っていくと、景色はさらに開け、正面に塩屋埼灯台、左には一面の太平洋という、まさに「海のまち」を実感できるエリアに突入しました。4月の終わりのいわきの海風はまだまだヒンヤリしていたものの、自転車で一面に開けた景色の中を風を切って進むのは気分爽快です。

途中、浜辺の駐車場に自転車を駐めて、砂浜まで降りてみます。いわき市沿岸部の砂浜は「鳴き砂」と呼ばれていて、砂を踏みしめると「キュッキュッ」という音がするのが特徴なんだそう。そして、その鳴き砂は春の陽射しに照らされて白く輝き、私たちに美しい姿を見せてくれています。

こうした美しい砂浜の景観を保っているのは、小野さんはじめ地元の有志やボランティアの方々です。小野さんによると、ゴールデンウィークや夏場など海のシーズンになると、バーベキューや花火のゴミを置き去りにしていく人が後を絶たないといい、この日も残念ながら砂浜の片隅にいくつかゴミが落ちていました。小野さんは週末ごとに海に出て有志の仲間とゴミ拾いを行っていて、この日の翌日もゴミ拾いをする予定とのことでした。

小野さんのお話を聞いていると、美しい景観は無条件に楽しむだけのものではなく、必ずその美しさを成り立たせている自然や人々の営みがあることを改めて感じました。

しばらくして砂浜を離れたあと、今度はすぐそばの防潮堤の上に登ってみます。するとそこには「豊かな人間性」と文字が彫られた大きな石が。

実はここ、元々地元の中学校である豊間中学校が立地していた場所だそう。小野さんもこの場所で中学時代を過ごしたそうですが、震災によって津波の被害を受け、今は震災後の土地造成によってその面影はほとんど見られなくなっています。防潮堤上に残されたこの「豊かな人間性」の石碑は、ここに豊間中学校が建っていたことを示す数少ない目印。それ自体は一見何気ない石碑で、ぱっと見だと「なぜこんなものが防潮堤の上に?」と違和感を覚えます。しかし、その違和感こそが、震災による大きな変化を経たこの土地からのメッセージとなって、私たちに多くのことを語りかけてくるのです。

海のまちのシンボル、塩屋埼灯台

防潮堤を降りて次に向かうのは、いわきの海のシンボル、塩屋埼灯台です。塩屋埼灯台は薄磯地区と豊間地区の中間の岬の突端部分に、白く凛とした姿で聳え立っています。自転車で麓に到着すると、ここからは階段を歩いて岬の岩場を登っていきます。

塩屋埼灯台は太平洋を航行する船の道標として、今から123年前の明治32年(1899年)に初めて建設されました。その後リニューアルを経て現在の灯台は昭和15年(1940年)に建てられ、今年で建造84年目となる歴史ある灯台です。そして、この塩屋埼灯台は全国で16基しかないという登れる灯台のうちの一つ。展望台まで登ってみると、南は豊間地区一帯、北は広野町と楢葉町に跨る広野火力発電所まで見渡せる絶景が広がっています。

灯台の管理を行なっているのは地元の小野さん(今回案内してくれた小野陽洋さんとは別の女性の方)。東日本大震災によって大きな被害を受けてもなお、この場所で灯台を見守り、来場者を温かく出迎えられているのだそう。また、今回の案内人の小野陽洋さんも「とよまの灯台倶楽部」という有志の団体に所属していて、灯台でのイベントや清掃活動を行い、灯台の保全や魅力発信に携わっています。いわき市内外から多くの観光客が訪れる塩屋埼灯台も、こうして地元の方々の尽力があって長年保存されているということを忘れないようにしたいですね。

自転車と階段のダブルパンチですでに膝がカクカクと笑いはじめていましたが、もうすぐ訪れるランチタイムに期待を膨らませながら次の目的地へ進みます。

防潮堤の中で眠る、震災前の豊間の記憶

塩屋埼灯台が立つ岬を越えるといよいよ小野さんの地元、豊間地区へと入ります。この豊間地区は東南東向きの約2キロにも及ぶ砂浜が広がります。そしてこの地形がもたらす波がサーファーたちを魅了し、全国的にも有名なサーフスポットとなっています。

(2020.4.25 撮影)

そんな豊間の海岸を七浜街道沿いにしばらく進んで行くと、道の途中で突然小野さんが立ち止まりました。「何かトラブルでも起きたのかな?」と不思議に思っていると、小野さんがまっすぐとした目つきで参加者に語りかけました。そう、ここは震災前、小野さんの自宅があった場所。

当時高専生だった小野さんはこの場所でおばあさんと一緒に首まで津波に浸かったのです。周囲の多くの家屋が津波に流される中、小野さんの自宅は奇跡的にその場にとどまり、小野さん自身もおばあさんとともになんとか助かりました。小野さんは地震が起きてから津波が来るまでの時間、海の様子をビデオカメラで撮影していました。その映像は今でも視聴することができ、ほんのさっきまで静かだった海が突然牙を剥いて襲いかかってくる様子が刻まれています。一方で、この映像を撮影していた小野さん自身は、周囲の自宅が流され、多くの方が犠牲となったあの津波の中、自分はなぜ逃げずに自宅でカメラを回していたのかと、ずっと後悔しているとおっしゃっていました。

豊間地区は震災後、元々あった区割りが嵩上げ造成工事によって改められ、特に海際のエリアの多くが、小野さんの自宅のように、新たに作られた防潮堤の下に眠っています。震災から10年が経ち、ハード面での復興はほとんどが完了していますが、その反面、震災以前から続いていたこの土地での暮らしや人々の営みは忘れ去られようとしています。前へ向かって進んでいく復興の営みは、常に過去を振り返ることによって検証されなければならない。そんな想いが、ここに立ち寄ることで強くなったような気がしました。

そして次に向かったのは、小野さんの現在のご自宅がある高台です。海が見渡せるこの場所には震災前から老人ホームがあり、震災のときもこの老人ホームに避難してきた方が多くいたんだそう。そこから少し低い場所に震災後に造成された土地が広がり、小野さんはじめ、これまで沿岸部に住んでいた方が新たに住居を構え、生活を送っています。

この日はなんと小野さんの案内でご自宅の中を見せていただけることに。玄関に入ってすぐの吹き抜けには小野さん自慢の自転車たちが。自転車好きな参加者のみなさんも興味津々で、ひょっとするとこれまでの立ち寄りスポットの中で一番盛り上がっていたかも?

ランチタイムはポーポー焼き! そして、復路へ

小野さんの自宅をあとにすると、いよいよお待ちかねのランチタイムです。この日のランチは豊間の「ごはんカフェ きゅういち」さんにお弁当を作っていただきました。きゅういちさんといえば、やはり自家製のさんまのポーポー焼き定食が有名です。

ポーポー焼きはいわきの郷土料理で、漁師が船上でさんまと生姜、味噌を練り合わせて網の上で焼いて食べたのが始まりと言われており、油が網の上から落ちて火にあたった時の音にたとえて、ポーポー焼きという名前がつきました。きゅういちさんでは、このポーポー焼きを全て自家製で調理されています。口にしてみるとさんまの脂のうまみが口の中にじゅわぁっと広がり、午前中の疲れを一気に癒してくれました。いわきの海を巡るツアーでいわきの海の恵みを味わう、なんとも贅沢なひとときです。

お昼休憩を済ませると、ツアーは後半戦に移ります。まずは震災後に造られた防災公園の豊間公園を目指して自転車を漕いでいきます。

すると、震災後新たに造成された住宅地の中に、芝生の丘や長ーい滑る台のある大きな公園が。小野さんによると、ここは豊間はまなす公園といい、震災前には豊間保育園が立地していた場所とのこと。

そしてさらに住宅街を進んでいくと、山すそに神社の鳥居が現れました。ここは八幡神社という、地域の氏神さまをお祭りする神社。本殿は鳥居をくぐって階段を登った先にあり、住宅が立地する場所からはやや高いところにあります。

震災時、ここは津波から逃げてくる住民の避難場所となったのだそう。先ほどのはまなす公園に立地していた豊間保育園の子どもたちも、ここに逃げ込み、津波の被害を免れることができました。

崖下にあった鳥居は津波により流出してしまいましたが、神社の本殿に逃げてきた人たちは津波の難を逃れたそうです。神社やお寺など、集落に古くから存在する祈りの場は、古くから地域の防災拠点としても機能し、それは東日本大震災においても例外ではなかったことがよくわかります。

子どもたちの遊び場に災害時のあらゆる備えが

さらに自転車を進め、高台の上の住宅地に辿り着きました。海を見渡せる丘の上に公園が現れました。こちらが防災拠点の豊間公園です。

防災拠点と言ってしまうとなんだか仰々しく聞こえるかもしれませんが、普段はいたって普通の公園。この日も広場で遊ぶ親子連れの姿がありました。ただ、ここにはいくつもの隠れた防災施設があり、東日本大震災のような大規模災害時でも地域住民が身を寄せることができる機能が備わっています。例えば、公園内のこのなんの変哲もないように見える東屋。

こちらは支柱の部分に幌が入っており、震災時にはこの幌を東屋の屋根部にかけて、風雨を凌げる防災シェルターへと変身します。

さらに、公園の脇にはマンホールトイレも。

こちらはマンホールを開くとトイレが現れるだけでなく、その蓋の部分に目隠し用のテントが収納されており、緊急時でもプライバシーを確保できる配慮がなされています。近くにはその使い方を示した看板も。緊急時に使う施設はいざという時に使い方がわからないなんてことも起こりがちですが、これならいざという時でも安心です。そして、目立たない存在ではありますが、災害時に停電が起きたときの電力供給も、豊間公園では自家調達することができます。

公園脇にある非常用の発電機や、

公園内の照明設備に備えられたソーラーパネルで電気をつくり、照明の支柱部分のコンセントから給電できる仕組みになっています。

暖房からスマートフォンの充電まで、現代ではあらゆることが電気なしにはできない生活となっています。普段当たり前に使えている電力が、緊急時にはとても重要になってくるのです。

保育園から中学校までが一貫! 豊間中の新校舎へ

公園内をぐるっと一周して各設備を見て回ってから、自転車に乗って丘を降り、再び薄磯地区へと向かいます。次の目的地は午前中に見た「豊かな人間性」の石碑の場所から移転した現在の豊間中学校がある場所。

震災後に新たに建てられた現在の豊間中学校は、豊間地区と薄磯地区のちょうど中間で、震災以前から豊間小学校が建っていた場所のすぐ上にあります。豊間中学校の建物の中には豊間保育園や児童クラブも併設され、豊間や薄磯で生まれた子どもたちは、生まれてから中学卒業までの15年もの時間を、同じ地区の友達と一緒にこの場所で過ごします。

震災後における地域の教育施設の再建については、地元の住民の間で協議を重ねたうえで、現在のような形になったとのこと。今回のツアーの参加者の中には豊間地区出身の方もいて、こうした協議の経緯を聴かせていただくことができました。豊間や薄磯に生まれた子どもたちは、幼児期から思春期までの長い時間を同じ場所で過ごすため、絆が強く、また、学年間の交流も活発なんだそう。そうした絆の強さが、災害時の助け合いにもつながったということもあり、現在のような教育施設の立地となったということでした。教育の場においても、地域コミュニティの醸成について考慮されていることがうかがえ、豊間地区の住民の方々の地域活動の熱心さが感じられました。

あの日何が起きたのか。伝承館で記憶と体験を結びつける

さて、いよいよ本日のツアーもラストが近づいてきました。次に向かったのは、薄磯地区にあるいわき震災伝承みらい館です。ここはいわき市が2020年にオープンした公立の震災伝承施設。東日本大震災と東京電力福島第一原発事故によるいわき市内の被害を伝える展示とともに、地域の語り部の方による講話を聞くことができます。

小野さんも、普段はこちらの伝承みらい館で語り部の活動をされている方のおひとりです。ここでは小野さんからの説明は少なめに、参加者それぞれが展示を見てあの日を境に起こった大きな変化について、想いを巡らせる時間となりました。

僕自身、これまで浜通りを訪れ、各地域を巡る中で、当事者の声を聞いたり、被災地の現場をみる機会が数多くありました。今回もそうした瞬間と似た体験をしたのですが、やはり、僕を含めてあの震災は全ての人が当事者であり、震災についてそれぞれの言葉を持っているはずだという想いが強くなりました。そうした言葉は表に出てくることも、内に隠れたままのこともあり得ますが、決してその声をなかったことにせず、ひとつひとつ大切にしていけたらと思いました。

いわき震災伝承みらい館を後にし、このツアー最後の目的地へと向かいます。今度は薄磯の沿岸部を北上し、山あいの道路を走っていきます。

震災前からずっとあったこの場所の記憶

そして沼ノ内の集落に差し掛かったところで小野さんが自転車を止めました。この場所には石碑や石灯籠がたち、お寺か神社があるような雰囲気です。そのうちのひとつをよく見てみると、「徳一菩薩開創 沼ノ内辨財天」と文字が彫ってあります。

どうやらここには弁天様が祀られている様子。「ん?弁天?」と思った方はするどい。階段で参道を上がっていくと、やがて見えてきたのは、お堂と山門、そして大きな沼です。

そう、こここそが沼ノ内地区の名前の由来となっている、賢沼なのです。この賢沼は沼ノ内地区を流れる「弁天川」の水源地となっている場所。つまり、午前中一番最初に立ち寄った「弁天川水門」へと流れる川は、ここがスタート地点となっているということだったのです。いやはや、ツアーの最初に伏線を敷いて、最後にしっかりと回収してくる小野さんの案内のすばらしさ。大変おみそれいたしました。この賢沼ですが、かつてはオオウナギの生息地として、いわき市の中でも有名な観光スポットでした。しかしその後、コンクリートによる水路整備や、観光地として多くの人が訪れるようになったことなどもあり、沼の水質が悪化。水は茶色く濁り、かつて見られていたオオウナギもその姿を消してしまったそうです。

当然ではありますが、今では観光客の出入りもまばら。賢沼や沼ノ内の弁天様は、古くから地域の人たちにとっても心の拠り所となる場所であったはずです。しかし、近代化の影響によってそうした価値は失われてしまいました。ここは持続可能性が叫ばれる昨今において、その意味を考えさせてくれる場所なのかもしれません。

賢沼と沼ノ内弁財天をあとにすると、一行は弁天川に沿って沼ノ内の集落を駆け抜け、弁天川水門の場所まで降りてきました。

ここからは夕日を背に、海沿いの県道を走っていきます。10分ほど走るとゴール地点の新舞子ハイツに到着しました。距離にすると約18キロというコンパクトなエリアを巡るツアーでしたが、1日かけてじっくりと地域を巡り、見どころ満載の充実したツアーでした。最後に案内人の小野さんが震災の記憶を伝えるビデオを見せてくれました。

その中には小野さんが震災当日に撮影していた自宅からの津波の映像も。ビデオの最後、小野さんは「この地域での生活は震災後から始まったのではない。震災が起きるずっと前から、人々がこの地域に住まい、暮らしてきたということを忘れないでほしい」とおっしゃっていました。

震災があった。だけど、その後に新しいまちができたわけじゃない

この文章の中でも何度も言及してきましたが、今回巡ってきたエリアは11年前の東日本大震災で甚大な被害を受けた地域です。いいかえれば、2011年の3月11日を境にまちが大きく変わった場所。この日ツアーで巡ってきたのは、今現在の地域の姿であり、そして、震災による大きな変化を経たあとの姿でもありました。

だからこそ、あの日に何が起きたかを知ることこそが、この地域について知り、次の世代へと地域を繋いでいくためにとても重要である。そして、さらに重要なのは、この地域を語る言葉は、決して「震災」といったテーマにはとどまらないということです。海も街も、震災前、ずっと昔からあったもの。

そんな中であの日があり、そして、今に続いている。当たり前ではありますが、そうしたことを強く気づかせてくれるツアーとなりました。


当日巡ったコースマップはこちら

提供:小野陽洋さん

レポータープロフィール:
久保田貴大
1995年長野県安曇野市生まれ。2020年よりいわき市に移住し、地域の情報発信やまちづくりに携わる。2022年からは日本パラサイクリング連盟に加わり、自転車という新たなフィールドで活動中。ちなみにサイクリングは超初心者。

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