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正義を正義と疑う視点

 自分の正義を貫くための軸は当然持っておいた方が良いと同時に、持っている「正義」が果たして本当に「正義なのか?」と疑う視点は必要だなと常々思っている。

経験上、その視点を持っていない人がかざしてくる人生観だったり価値観を聞いていると、年上年下関係なくどうしても「浅い」といった印象を抱かざるを得ない。どんなに売れっ子でも「結局この人は、そんな見栄に繋がることばかり考えて数十年も生きてきたんだな」などとと思ってしまう。

さらにタチが悪いのは、そういう人種ほど、こちらに対し会って間も無く謎の議論を吹っかけてくる。こちらの姿勢を 1mm も理解していないほど早い段階で「だからキミはなにをモットーに生きているの?」みたいな不思議な上から目線で、なんなら圧迫面接気味に話しかけてくる。

きっと自分の中で「確固としたアイデンティティ」を持っているという担保感が不思議な自負を作ってしまっており、結局は「自分にある=他者にない」といった、自分が獲得したものを振りかざしたい為に、いちいち "説教" のようなカードを安易に取りたくなってしまうのかも知れない。そして、そのための生贄を常に探し続けるのだ。

こうした人が持っているアイデンティティと一見思っているものは、巨大なコンプレックスの裏返しだと思っている。

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 大きなコンプレックスを抱えており、他者に認められたいという歪んだ欲望が達成を果たした瞬間、いち早く誇示して優位性と価値を相対的にポジショニングしないと気がすまなくなるのだろう。もしくは未達成状態でも、ポジショニングをすることで「達成した」という錯覚を得たいのかも知れない。

だから、肝心の「正義を正義と疑う視点」がすっぽり抜けており、振りかざす拳は立派であれ、おそらくパンチングマシーンを実際殴らせたら、数キロレベルの威力しかないような論しか発せられない。

でも本人はそれで満足なのだ。自分があくまで「相対(他者)評価」の軸で生きることを決めている以上、他の人への評価視点も同じようなものでしか語れないから。

絶対的な価値を心の中に抱えている人は、多くを語らないし、逆説的に絶対的な価値観を据えるまでにしかるべき時間を設けている。頭の中では常に咀嚼が働き、物事を慎重に語る。

少なくとも僕はそう解釈している。

 穏やかに、常に主観と俯瞰は使い分けつつ生きていきたい。もう会うこともないだろうけど、今回のケースはちゃんと喧嘩して良かったな、と思うと同時に良い反面教師にさせてもらった。

今日はこんなところで。


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