心を読む
ふと、相手の心が読める(察せる)のは、前提として自分の心を読むことが第一条件じゃないか、と考えた。
自分自身が忙殺に追われてしまうと、まず自分自身が見えなくなる。見えなくなると、周りが見えなくなる。自分の心の動向を失ってしまっていることにより、連鎖的に土台を失った想像力は他者の言動印象に追従的に影響する。
そういった心境において相手とやりとりをする際、相手側から芳しいリアクションがなかったり、返答がなかなかこない時、想像の代わりに「妄想」が勝ってしまい、必ずと言っていいほど軽い苛立ちを覚えてしまう。
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そうした時の対処法というか、自分が得た実感から何となく意識していることがある。
温まったギアを落とし、まずは落ち着く。そして、丁寧に一つひとつをこなすよう心がけてみると、それだけで心の中の景色も違ってくる。例えば家事全般にしても、妻の代わりに洗濯、炊事、食器洗いや風呂掃除などをこなすだけでも、恐ろしく時間を費やすことに驚く。その間の過集中というか、「他に気を向けられない」という感覚も良くわかる。
そうしたことをいちいち心の中で捉えながら作業をしていると、自分が想像もしないほど相手は多忙に追われているのかも知れない、自分だって、公私含めた今のタスクを順序立ててこなしていると、すべてがすべてその人に向きあう時間は別のまとまった時間に確保したい心境になったりもする…という嫌味ない想像力が生まれる。
"自分の心を読む" ことによって「相手の心を読む」と結論づけたが、あながちその順番で誤りはないのだろう。
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ベタながら、心に余裕がないと、相手に対する余裕も生まれない。それをある程度の根拠としつつ、引き続きコントロールできること・できないことの割り切りとコンボで考えていれば、ある程度は気を長くしながら、かえって自分のことに集中できるのだろう。
今日はこんなところで。
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