見出し画像

エンタメは細部に宿る

 自転車を走らせていて信号のない交差点に差し掛かる時に、もし自動車が左右のどちらかから来ていた場合、ブレーキをかけ立ち止まる。

自動車は立ち止まった僕に気づき、一瞥して進行方向へ曲がっていく。

試しに一度、同じような交差点に差し掛かった際、相手を圧迫しないよう少し手前で立ち止まってみたら、自動車は僕に気づかず交差点を曲がっていった。

気づかれない事に対し少しの気後れを感じたが、相手が僕に注意を逸らさず集中して車の運転をする事に一助できたのであれば、それも一つの親切だなと思った。

***

 大なり小なりエンタメに寄り添った作品を作るにあたり、気づく事で感動する事と気づかない事で感動するものと2パターンあると思っている。

前者は表現そのものの魅力だったり相手の五感にこちらから意図を持って能動的に訴えるものであり、後者は環境に浸れるための土台だったり、物語だったら違和感を覚えない辻褄だったり、世界観だったり。

乱暴にまとめると、前者は "刺激" 、後者は "快適さ" みたいなものか。

 街を歩いていても当たり前のように思っているが、実はゴミの落ちていない道路などは、必ず誰かが定期的に掃除してくれていたりするから綺麗を保っているのだ。普段は気づかないが、一旦気づいてしまうと、途端に日常がいかに細部を意識して運用されているかと言う事を思い知らされ、震える。

気づく事に対し注力するのは、最初に目に触れる部分なので比較的想像しやすいが、気づかれない事をデザインするのは、俯瞰的な目線をいかに持っていないといけないかにもよるので、バランスが難しい。

ここが抜け落ちているかいないかで、作品がただ尖って独りよがりなものになっているか、多くの人とのフックを生むかの違いになるのかなと思っている。

***

 五感に対して刺激を受けたものにまず「面白い」感覚を覚え、もっと深い潜在意識に対して刺激を受けた事に気づくと、人は深い感動に陥る。

「この作品は理屈じゃなく面白い」と言わせるものは、必ずその理屈を裏で作っている人が存在する。理屈をきちんと言語化できる人たちによって作られており、そういった裏側事情を思わさせられる作品に対し、僕は大きな感動を覚える。

気づかないところにまで気を配りプロデュースされたものは、当然世界観の果てまで作りがしっかりしているので、受け取る側の想像力を大きく刺激し、派生や二次作品などもより多く生まれやすくなるのも良くわかる。

自身エンタメに多少なりとも関わっている人間として、そのあたりのロジックをもっと大切に見据えた姿勢を持っていたいなと思った。

今日はこんなところで。

貴重な時間の中 読んでくれてありがとうございます。 「スキ(いいね)」は非会員ユーザーさんもできるので、 押してくれるとすごく励みになります。 そしてぜひ大阪に来た際は COPY HOUSE へ!🏡