見出し画像

権利と義務の表裏一体性

 ある人が権利を行使しているとき、一見こちらはその権利を受けなければいけないという義務感に駆られがち。

特に、立場が優位な人が話す「言い分・説教」というものを振りかざしている時は、こちらは自然に「聴いてあげないといけないんだな」という受けの姿勢を取りがちだ。

しかし、こちら側にも「権利」というものは確かにある。

「話す権利」というものが相手側にあるのなら、こちらも理不尽に気分を悪くするのを避ける為に「聴かない権利」を行使することもできるのだ。多くの人たちは、その権利を使い渋るために、聞きたくもない話を延々聞かされてしまい、疲弊する。

集団でわいわい喋る世間話のときに、執拗に自分の話に持って行きたがる人がいる。誰もそのことに対しその場では突っ込まず、なんとなく流れで聴いてしまう。一人そういう人がいると、どうしても疲れる。

そこで先述の「聴かない権利」という訳だ。

別に言い返す必要はない。浴びること自体がストレスと感じるのであれば、そっとその場を離れれば済む話だったりする。聴かないと悪いという「義務感情」の方が先に立ってしまうから、ついつい場に長居してしまい、どこへぶつけるでもないやりきれなさを覚えながら解散となるのだ。

 思考が停止すると、どうしても人はそこにいる事を正当化するために「義務」の感情に走りがちである。そこには少なからず「権利」も同じ濃度で存在するのに。

どこまでが「権利」でどこまでが「義務」になるのか、シチュエーションや立場の違い、心理的優位のバランスで秒ごとに変化するものだけに、よほど意識してないとつい流されてしまいがちだが、表裏一体ながら確実にどちらも存在することを認識さえしていれば、状況がどのようなものであれ、自分にとって選択肢の余裕を持つことは可能だったりする。

義務と思えるものが空気中に満ちるほど、同じくらいの権利も裏には潜んでいる。自分がその場で "どちら" に目を向け、選ぶかだけなのだ。

今回は会話に的を絞ったが、本質的にはどの分野においても一緒だと思っている。

今日はこんなところで。

貴重な時間の中 読んでくれてありがとうございます。 「スキ(いいね)」は非会員ユーザーさんもできるので、 押してくれるとすごく励みになります。 そしてぜひ大阪に来た際は COPY HOUSE へ!🏡