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何かを「やりきる」ことについて

 改めて「やりきる」ことの大切さについて考えている。

深呼吸をするにしても、息を「吐ききる」ことでしか、次の動作である「吸い込み」もできない。

曲を作るにしても、どんなに稚拙で未熟だと思っても「作りきって」しまった方が、途中で止めてしまうことに比べ、その後の技能の上達度合いも格段に違ってくる。

僕がいま note の記事を150日以上連続で更新できているのも、ひとまず「書ききる」ことにウェイトを置いて続けたからだろう。いつ止めても良いのに、誰にも強制されてもいないのに、「書ききろう」と思いながらやってきたら、案外楽しんで続けていられている。

手を動かすこと、難しく考え過ぎないこと、やりきることの3つは改めて大事だなと、ほうじ茶を飲みつつ、ベランダ越しに晴れた空を眺めながら噛み締めている。

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 「やりきる」ための重要なキックとして、「とりあえずやってみよう」の精神も非常に大切。

途方もない作業工程のように思えても、とりあえず "えいやっ" とやってみると意外と手が進み、エンジンが温まる。温まったエンジンに沿ってより手が進むことで、ぼんやりしていたイメージの輪郭が掴め、さらなるアイデアが生まれたり、次のヴィジョンが明確になってくることがままある。

僕の場合、note に関しては、最初の頃こそキャンバスを前にしてどう書こうか、という気持ちの方が大きく、何か良いことを上手く書かなければ…などという気負いもたくさんあったが、ある時期からあまりそう言うことを考えなくなった。

最近読んだ、この方の本紹介記事が非常に参考になった。

この中の「2. 最初から編集者にならない」というトピックを見てなるほどな、と思い、「書き手」としてひたすら主観的に書き綴りまくったあと、「読み手」として編集者目線にクルッと切り替え、どんどん推敲して一気に仕上げるといった手法に切り替えたところ、より気楽に書けるようになった。

リラックスして、自分がその瞬間頭に浮かんだことをそのままざーっと書いて、推敲とともに「パシッ」と締める。最近はそんな感じだ。

親愛なる人のために』という根幹のテーマこそ持ちえど、結局はこうしてライフログ、メンタルログのようなものを遺している時点で、生身の生き様のようなものは「親愛なる人」にも自然に伝わるな、と思ってからは、特に楽になった。

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 とりあえずやってみて「書ききろう」、そのことを考え出して手を進めてみると、意外に自分の言葉は頭の中にこんなに溢れてたんだな、と言うことに気付けたりする。

書くことで頭の中が整理され、それを土台とするセレンディピティ(計画的偶然性)にも恵まれたりする。文章が吐き出されるにつれ、見えない糸で繋がっていた言葉と言葉の縁や、表現同士の幸せな融合を感じる場合も多い。

様々な事柄において「やりきる」ことは、僕にとって脳のデフラグみたいなものだな、と思っている。

今日はこんなところで。

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