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「運命」を重要視しすぎると疲れる

 縁や運命について考えていた。

会う人は別段綿密に計画を立てずとも会う。逆に、会わない人はどれだけ意識して会おうとしようとも、必ずどちらかの都合がつかず会わない。

こういう時は、いつも「縁」を感じる。

だから、無理に都合をつけて会うまでにも至らなくなった。だいたいの事は「縁がなかったんだな」で片付けることができる。

そう考えたら、人に約束を反故にされたり急な用事などでドタキャンされようが、ある程度は心を動かされることなく受け止めることができる。

 「これは運命だ」と取りすぎると、しんどい場合がままある。

例えば、自分にとって名実ともに飛躍できそうな仕事のチャンスが来る。自分なりにすべてを注ぎ、チャンスに対して誠実に行動する。それでもダメな時はある。

こうしたチャンスはまたとないから死ぬ気で摑み取れ、という昔からの慣例もあり、寝食を忘れて事に当たったり、修行や丁稚奉公のような気分で先方から叱られながら技術を叩き込まれ、気づいたら一流になっていた…というタイプのチャンスがあることもわかるが、僕個人としては、このように「死ぬほど無理して掴み取るチャンス」を仮に取り逃がしたとしても、誠実に自分のペースで好きな活動をやっていたら、わりと定期的に大きな声はかかったりする。

その時に縁を感じるものや、チャンスと感じるものには全力で臨むが、自分の本来のペースやバイオリズムをぶっ壊してまで臨むタイプの縁は、長期的に見て縁ではない場合が多い。

それよりも、ニュートラルに無理なく、好きなことを素直にその時の最高の表現で出すよう心がけていたら、それがいつのまにか幹の太いチャンスとして成立し、もはや「チャンスを掴む」という意識すら持つ必要なく高みに連れて行ってくれるので、あまり運命だ千載一遇だと重要視しない方が良いと個人的には思っていたりする。

今日はこんなところで。

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