
フリーランスはリーマンショックをどう生き延びたか
2008年、アメリカのサブプライム問題に端を発するリーマンショックが起きました。当時、僕は結婚したての30歳。フリーランスのライターをやっていました。
主な仕事は「広告記事の執筆」で、その商材がいかに素晴らしいものであるかを言葉で伝えるのがその役目。ギャランティーもそこそこに、生活は比較的安定していました。
そんな中、世界を揺るがす経済事件が勃発。
当初は対岸の火事でした。海を隔てたはるか彼方のウォール街でどんな事態が起ころうと、島国でひっそり暮らす一介のフリーライターには無縁の話に思えました。
ところが年が明けた2009年の2月。吞気にグアム旅行に出かけて帰国するや否や、それまでレギュラーで抱えていた仕事が、シャボン玉が弾けるように次々と消えていきました。
リーマンショックの影響はアメリカだけに留まらず、日本の会社もそのあおりを受けて、日経平均株価は大暴落。あらゆる企業が規模の大小にかかわらず、苦しい経営を余儀なくされました。
そして企業は支出の中から削減しやすい「広告宣伝費」を大きくカット。広告代理店から雑誌やウェブなどの媒体を経由して外注されるライターやカメラマン、スタイリストといったフリーランスに仕事が落ちてこなくなりました。
上流でお金がせき止められているのですから、末端まで届くはずがありません。その人に実力があるかどうかにかかわらず、案件自体が発生しないのですから、仕事が増えないどころか減っていくわけです。
僕自身、それまで手がけていたウェブマガジンで請け負っていたタイアップ案件も、芸人さんをインタビューする連載も、ライティングついでに任されていたベンチャー企業のサイト制作なんかも、すべてなくなりました。すべて、です。
大学在学中から仕事を始めてからというもの、ありがたいことに絶えず声をかけてもらい、年収は低いながらもずっと右肩上がりでやってこれたのに、初めて無職状態に突入したわけです。これは本当にこたえました。
そして体調を崩します。身体が倦怠感に包まれ、めまいでくらくら。何をしても頭痛。本を読もうと思っても、文字を追うだけで吐き気を催す始末。
このままではいかんということで、当時住んでいた国立の内科に行き、立川の耳鼻科に行き、八王子の脳神経外科に行き、最終的に針治療をしてくれる高円寺の診療所に流れ着いて、先生に針をプスプス背中に刺されて言われた言葉が「気持ちがお疲れですね」だった。
病名として告げられたわけではないけれど、たぶん鬱だったのだと思います。
そんな僕ですが、今はライター業も細々とやりつつ、オリジナルの文具や雑貨を企画して販売も行うメーカーを立ち上げました。早いもので、もうすぐ創業10周年。リーマンショックからなんとか生き残ることができました。
いや、ライター業がメインでなくなったという意味では、本質的には生き残れていないのかもしれません。でも、身体は生きています。気持ちもぜんぜん疲れなくなりました。経済的にも何とかやれています。
なぜ一介のフリーライターが時代のあおりに負けず、今日までやってこれたのか。いつ希望を失ってもおかしくないような状況で、なぜその火を絶やさず生きてこれたのか。
今回はそんな話をさせてください。
【理由その1】会社設立の手続きをした
仕事がない。体調もすぐれない。家で映画を観るのも本を読むのもつらい。誰にも会いたくないし、連絡したくもない。ただベッドで横になる毎日。
無収入の僕を家計の面で支えてくれたのは、会社勤めをしていた妻でした。とはいえ、さすがにやる気も覇気もない夫を見るに見かねて、彼女はこんな言葉を僕にかけます。
「会社でも作れば? ハイモジモジって名前の会社があったら面白いなって前に話してたじゃん。電話でハイ、モジモジ、ってやつ。あれ、今やったらいいんじゃない?」
その言葉にピンときた僕は、ハイモジモジという風変わりな名前の会社を設立することに。
どうせ仕事もないし、会社員でもないから独立の不安もない。ただ看板を新しくつけかえるようなものだから「またあいつ面白そうなこと始めたぞ」とまわりに思ってもらって、なにか新しい仕事が舞い込むかもしれない。そんな下心もありました。
そしていざ設立するとなったら、やることがたくさん出てきました。
資本金の額を定め、定款を書き、公証役場に出向き、会社印を作り、法務局で登記し、銀行で法人名義の口座を開き、名刺を作り、ドメインを取得し、サイトをこしらえ、メールアドレスとTwitterのアカウントを開設する。とにかくやることが山のようにありました。
ぜんぶひとりでやったので、かかった費用は24万円くらい。とにかく楽しかった。実は会社を作って「何をやるか」はまだ決めていなかったのですが、ともあれ「会社を作る」というイベント自体が楽しくてしょうがなかったです。
気がつけば「疲れていた気持ち」はいつの間にかふっ飛んでいて、あんなに誰とも会いたくなかったのに「会社作ったよー」と友達に片っ端から電話する始末。すっかり元気になりました。
妻の狙いは、ここにありました。
会社を作るとなったら、書類をまとめたりして手足を動かさなきゃいけないだろうから、ベッドから這い出てそのうち元気になるんじゃないか、リハビリになるんじゃないかと考えたようです。その通りになりましたね。
この経験から言えるのは、とにかく気持ちが塞ぎこんだら手と足を動かすこと。別に会社を設立せずとも「趣味のインスタをアップする」でも「毎日公園を走る」でも「コンビニスイーツを全店制覇する」でも何でもよくて、とにかく「やることがある」のが大事です。
やることをやっていたら、きっとそのうち元気になります。
【理由その2】趣味がたまたま仕事になった
何をやるかを決めてなかった新会社。あれこれ企画したはいいものの、営業したり友人に相談した結果、どれも実現の可能性が低くて頓挫しました。
また「ベッドにごろん」の生活に逆戻りか。そんな考えもよぎる中、ふと「リストイット」という文具のことを思い出しました。
つい手にメモしてしまう習慣がある人に向けて、メモを書いた紙をリストバンドのように手首に巻けるものがあったら、うっかりを防止できるしファッションアイテムにもなるし「一石二鳥じゃないか」ということで発案し、ハサミで切って手作りしたことがあるんです。作ったのは主に妻ですが。
そうして2008年だったか、東京ビッグサイトで年に2回開催される「デザイン・フェスタ」に出展してみたところ、10本100円セットが見事に完売。お客さんから「これ絶対に商品化したほうがいいよ」と、熱いラブコールを受けたこともありました。
「そうだ、あのリストイットを売ろう」
「ああいう商品を企画して売るメーカーになろう」
そこから文具メーカーとしての一歩を踏み出し始めます。
すべては成りゆき任せの、結果オーライ。再現性のない話ではあるのですが、ここに「現状を打破するヒント」があるとすれば、それは「普段から趣味を持つこと」ではないでしょうか。
僕は常日頃から「こういうものがあったらいいのに」と考えるのが趣味です。そのほとんどがくだらないものですが、そこには「儲けてやろう」とか「副業にしてやろう」なんて考えは全然なくて、言ってしまえば「あったらいいのに」を探すゲーム。頭の体操みたいなものです。
その中に「ハイモジモジというおかしな名前の会社」と「腕に巻ける紙のリストバンド」というアイデアがあり、たまたま運とタイミングが重なって形にすることができたというだけ。歴史にifがあり、リーマンショックが起こらず、ライター業も変わらず順調だったなら、これらのアイデアが世に出ることはなかったと思います。
でも、ひとつ言えるのは「種は蒔いてあった」ということです。それが種になるとも思えなかった趣味が、結果として花をつけたということ。
長い人生、これからも何が起こるか分かりません。
目の前の仕事に一生懸命取り組むことももちろん大事なのですが、何かそれとはまったく違う、野心も下心もない「純粋な趣味」を普段から育ててみるのも大事ではないでしょうか。
その種まきがいつか芽吹き、本業になるタイミングがやってくるかもしれません。いや、来ないかもしれませんが、とにかく邪念を捨てて楽しめるものを見つけられたら、きっとその種は窮地を救ってくれると思います。
【理由その3】スキルをスライドした
先にも言いましたが、僕はリーマンショック以前はライターとして活動していました。主な収入源は、企業のプロモーションに関わって執筆料をもらうことでした。
そしてリーマンショックを経て、文具メーカーを立ち上げました。今の収入源は、自社製品のプロモーションをして販売した後に手元に残る利益です。
つまり「お金の入り方」が変わっただけで、実はやってることはほとんど同じなんですね。
ある商材がある。その魅力が何かを考える。それをどう伝えれば一番伝わるかを考えて、言葉に置きかえる。その対象が他社の商品なのか、自社で企画したものなのかの違いだけ。
文章を書くことで執筆料を得るのか、文章を書くことで商品が売れて販売益を得るのかの違いなだけで、「文章を書く」「言葉を使う」点ではまったく同じ。
思えば専門領域を持たず、何かの分野の第一人者でもない、僕のような「何でも屋」のライターは、いずれ若手に淘汰される運命でした。
「自分でなければ書けないもの」がない者は、遅かれ早かれ若手にとって代わられます。彼らは機動力があり、瞬発力があり、低いギャランティーでも引き受けて、精力的に仕事をこなします。
自分だって、そんな若手のひとりだった。だから世代交代するのは時間の問題だった。僕の場合は、リーマン・ショックのおかげで、そのタイミングが早まっただけ。
ライターに限らず、フリーランスの方はみんなそうです。若くして仕事を得ることができた人は、その理由が「若さ」だったとしたら、間違いなく次の若さに負けます。若さとは異なる魅力を振りまけるようにならない限り、次の子たちに席を奪われることになります。自然界も厳しいけれど、人間界も残酷です。
そんな中でもできることがあるとすれば「活躍の場を変えること」ではないでしょうか。
もしも自分の持てるスキルが今いる場所では活かしきれてなかったり、そぐわないものになっていたり、その場所自体が奪われてしまったとしても、別のところに身を移せば、そっくりそのまま活かせる可能性があります。
目先を変えて、そのスキルで喜ばせたい人を他に求めたり、対価が入ってくるルートを考え直したりすれば、そのスキルが錆びついていない限りは機能するはずです。
そのスキルでできることはひとつですが、活かせる場所はもっと他にもあります。置かれた場所で咲くことも大事ですが、もっといい花を咲かせられる場所は他にあるかもしれないのです。
さいごに
昨今の新型コロナウィルス騒動が経済活動を停滞させ、約10年前のリーマンショックを超える「コロナショック」につながるとの指摘があります。いや、もうすでに、十分なほど影響が出てますよね。
かつてリーマンショックでリストラされた会社員が大勢いたように、廃業に追い込まれたフリーランスがいたように、また残念な歴史が繰り返されてしまいそうです。
でも、ちゃんと生き延びたフリーランスもたくさんいます。本業にさらに磨きをかけた人もいれば、目先を変えて新しいことを始めた人もいます。みんな、みんな生きてます。
今、こんな状況にあって自分に何ができるかと考えたとき、現状と単純比較はできないまでも、ささやかな「リーマンショックを生き延びたひとりのフリーランスの話」が誰かの役に立ってくれたらと思い、このnoteを書きました。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
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