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翻訳に意外と(?)役立っていること4つ

 翻訳者として仕事をしていくには、原語(私の場合はスウェーデン語)の理解を深めること、日本語力を磨くこと、本をたくさん読むこと、調査力を上げること、これらの努力が最低限であり近道はないと断言できますが、そのほかに「意外と役立つな」と思うことはたくさんあります。中には偶然の産物も多く、たまたま接した漫画や映画に、友人との会話に、遊びに出かけた先に、そのとき取り組んでいる翻訳のヒントが隠れていた、などということはしょっちゅうです。
 私は中学からキリスト教系の学校に通っていたため朝の礼拝や聖書の授業があり、当時ははっきり言ってお昼寝の時間でしたが、それでもなぜか頭に残っているキリスト教や聖書の知識は、翻訳にとても役立っています。ヨガにはまって解剖学を勉強したおかげで、人体の構造がある程度頭に入っていて翻訳の際に助かった、ということもあります。
 そんなわけで、意外と役立っていること、いろいろある中の4つをシェアします! 私は小説を翻訳することが多いので、そちらに偏っていますが、ある程度はどのジャンルにも共通する話かと思います。よく考えると意外でもなんでもない気もしますが……ほかの翻訳者の方々にも「私は◯◯が役に立った」という経験がたくさんおありだと思うので、そんな情報交換のきっかけになることも期待して、えいやっと公開します。

(1)文学理論
 高校までの国語の授業では、小説を読んで考えることといえば、「登場人物はこのときどんな心情か」であったり、「著者がここで言おうとしていることはなにか」であったりしたものです。が、大学の一般教養の授業で、かなり構造主義寄りだったフランス文学の先生に、文学作品がどのように構築されているかを分析する方法を教わって、新たな小説の読み方に開眼しました(それが面白すぎて専攻を仏文学に変えてしまったほど)。
 作家の生涯や当時の歴史、作品の内容とその意味、そこに込められたメッセージを考えることも、もちろん大切ですが、その内容を伝えるために作品がどのように構築されているか、という視点で作品を読むこともできます。この視点を取りいれることが、翻訳にとても役立っています。
 翻訳する際に、原書と一字一句同じように、文の構造すらも変えずに訳す、というのは不可能であることが多いです。でも、それでも原書と同じように物語の世界を構築し、提示する必要があります。たとえ一本一本の木々の見た目が一致していなくても、森としての眺めは一致していなければなりません。というわけで、原書がどのような方法で森を育てたかを分析するのは、とても有益だと思うのです。たとえば、
・語り手はだれか。それは物語世界の内部にいる人物か。
・どの視点から物語を提示しているか。それは一定か不定か。
・作品内の時間の流れがどうなっているか。たとえば、物語内のできごとの時間的順序と、そのできごとが提示される順序が一致しているか、など。
・語り手と物語との距離感。たとえば物語内のセリフをどのように提示するか(直接話法か間接話法か)、など。

 小説を読み慣れている人はおそらく、こういった諸々を直感的に正しくつかめています。そのため、とくに理論を勉強しなくても小説の翻訳ができる人はたくさんいるでしょう。私は個人的に、直感的な理解をはっきりくっきり構造化して考えるのが好きなので、その意味で理論がとても役立っています。また、原書の理解がぼんやりしている場合、こうした理論に照らして考えると、なにかがはっきり見えてくることもあります。

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大学時代の講読の跡。日本語訳はたぶんこちらですね。ジェラール・ジュネット『物語のディスクール』(水声社、花輪光・和泉涼一訳)
文学理論といってもいろいろありますので、これは単なる一例です。ほかに良書のオススメがありましたらぜひお願いします!


(2)文章を要約する練習
 私は大人になってからフランス語やスウェーデン語を学びましたが、その過程で語学学校に通ったときによくあったのが、新聞記事などの文章を読み、その内容を口頭で要約して他人に伝える、というエクササイズでした。この練習も意外と翻訳に役立っています(とくにノンフィクションの翻訳にけっこう有益かも)。口頭で要約すると、もっとも重要な主張はなにか、どの部分がその根拠にあたるのか……などといった文章の構造を、自然と考えることになるからです。これは上にも書いた「森としての眺め」をとらえることにもつながると思います。私だけかもしれませんが、翻訳作業に没頭していると、木々それぞれの見かけが気になりすぎて視野が狭くなってしまうことが多々あり、ときどきこうして一歩引いてみる必要性を感じています。
 たとえば、英語ですが、以下の一段落の内容を、ほかの人に口頭で説明しようとすると……(実際に口に出してボイスメモに録音してみました)

In the future, glaciers will be an alien phenomenon, rare as a Bengal tiger. Having lived in the time of the white giants will become swaddled in a fairytale glow, like having stroked a dragon or handled the eggs of the great auk. Glaciers will certainly be found in the Arctic, Greenland, and Antarctica for a few thousand more years, but probably not in the Alps and the Andes; they will disappear in most parts of the Himalayas and Iceland. People will ask, how were glaciers described at the beginning of the twenty-first century?
(アイスランドの作家Andri Snær Magnasonによるエッセイ”Farewell to the White Giants”、Lytton Smith氏による翻訳)
将来、氷河はとてもめずらしいものになって、氷河があった時代に生きていたと言うと、おとぎ話の世界に生きていたみたいに見られることになるでしょう。たとえば北極や南極にはまだ氷河が残っているだろうけど、アルプスやアンデス、アイスランドからは消えている。そうなったら、未来の人々はこんな疑問を抱くでしょう――21世紀初頭の人たちは、氷河のことをどんなふうに書いていたんだろう?

 たいへんつたない説明ですが、それでも原文にはない言葉がいくつか加わっているのがわかります(太字にした「たとえば」「そうなったら」)。これらの語は、この文章の構造を私がどう理解したかを示しています。アルプス云々は例示であり、”People will ask”のあとは氷河がめずらしいものになったことの結果である、と。
 翻訳をするときには、勝手に接続詞などを付け加えることは基本的にせず、なるべく避けるわけですが、それでもこの構造が伝わるように訳せないだろうかと考えます。他人に要旨を説明しているときのように、論理や話の流れが自然に伝わるように。もちろん、この理解で正しいかどうか、見直す作業も欠かせないことは言うまでもありません。


(3)日本語の文法を学ぶ
 周囲に日本語を勉強している人が何人かいて、ときどき日本語について質問されますが、母語を論理的に説明するのは難しく、「なんとなく……」としか言えないことが多々あります。そこで、日本語の文法を解説した本、日本語教師向けの本を読むわけですが、これがけっこう翻訳にも役立っています。たとえば助詞「は」と「が」の違いなど、あらためて説明されると、森の眺めをとらえるよりもむしろ木々一本ずつの見かけを整える方向で、なかなか参考になるものです。とくに自分が翻訳している言語で書かれた日本語の文法書があれば理想的だと思います。
 日本語力を磨くには、日本語の良い文章をたくさん読むことが不可欠でしょう。が、文法など、言語学的な面からあらためて日本語を振り返ってみるのも、有効なアプローチのひとつではないでしょうか。

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うちにある本の一部。こちらも良書のオススメぜひお寄せください! 漫画「日本人の知らない日本語」なども気軽に読めてよかったですね。


(4)演技メソッド←NEW!
 翻訳全般に言えることですが、とりわけ小説のセリフを訳すときには、字義どおりに訳すだけではまったく足りないことが多く、その登場人物の口調や場面の状況などを考えなければなりません。たとえばスウェーデン語の挨拶「Hej」は、「おはよう」「おはようございます」「こんにちは」「やあ」「よう」「もしもし」「どうも」「すみませんが」「さよなら」「ごきげんよう」「じゃあね」等々、いろいろ考えられます。それに、たとえば毎日会っている同僚どうしが交わす「Hej」と、夜中の廃工場でようやく出会った宿敵どうしが交わす「Hej」を、自動的に同じ訳語にするわけにもいかないでしょう(結果的にどちらも「よう」になった、ということはありえますが、そこに至る前に考えるプロセスが不可欠です)。こんなわけで、「このシチュエーションでこの人物が日本語を話すとしたら、どんな口調でなんと言うだろう?」という方向で考えることが多いです。これをつかむため、私はよく原文を音読しておりまして、ときどき、まるでお芝居だなあ、と思います。もしかして、翻訳の仕事と俳優さんの仕事には、なにか通じるものがあるのでは?
 ……などと思っていたところに、最近、俳優をやっている友人が演技メソッドの本を熱く推してくれて、面白そうだったので読んでみました。すると……やっぱり! これは役に立ちそう。さっそく取り組んでいる翻訳作品にこの本のメソッドをあてはめながら考えてみたところ、新たな発見があり、理解が深まったと思います。

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本はこちら。イヴァナ・チャバック『イヴァナ・チャバックの演技術――俳優力で勝つための12段階式メソッド』(白水社、白石哲也訳)  
「俳優さんってこんなことを考えて演技しているのか!」とわかっただけでも面白い一冊でした。映画や演劇を見る目が少し変わったと思う。

 メソッドのすべてをここで説明することはできませんが、役立ったと感じている点はおもに次の2つ。
・キャラクター分析の方法。この本では、あらゆる役柄はその作品の中で欲しいものを勝ち取るべく戦っているのであり、根源的な「全体の目的」と、それを実現するために場面ごとに達成をめざす「シーンの目的」がある、と考えます。たとえば全体の目的が「愛されること」であった場合、あるシーンでは「恋人に自分を見てもらう」こと、別のシーンでは「べつの愛を求めるために、その恋人を切り捨てる」ことが目的となるかもしれません。小説の翻訳にあたって、登場人物がどんな性格かを分析するのは当然のことですが、「この人物は根源的になにを欲しているのか」「この場面ではなにを達成しようとしているのか」も体系的に考えてみると、理解が深まると感じました。さらにもっと細かく、セリフごとに目的を分析していくこともできます。
・演技メソッドの教本ならではだと思うのですが、自分の人生経験をどう演技に生かすか、ということについても書かれています。たとえば、シーンの目的が「恋人に自分を見てもらうこと」であった場合、いま実際の人生の中で自分を見てほしいと思う相手はだれかを考え(恋人である必要はなく、親、教師、キャスティング担当者、などもありうる)、その人を代替として思い浮かべて演技をする、などといった方法があります。翻訳者はもちろん演技が本業でありませんが、自分自身の経験をうまく生かして言葉を生み出せたら強いですよね。

 俳優さんには脚本が、翻訳者には原書があり、それを変えることはできない、というところまでは共通しています。が、俳優さんの場合、その脚本に自分なりの解釈を加えていくことで演技に深みが生まれるのに対し、翻訳者の場合はあくまでも原著者の意図を汲んで伝えることが第一、とは言えるかもしれません。翻訳者の解釈がいっさい入らない翻訳は不可能ですが、だからこそ、自分の解釈を客観的に見つめる努力が不可欠だとも思います。この本を読んだのはごく最近なので、これからどんなふうに役立ってくれるかは未知数ですが、役柄(登場人物)を解釈する方法をくわしく知ることで、逆に「どこからが自分の解釈か」がややクリアになる、という効果もあるのではないかと期待しています。
 演技メソッドはほかにもいろいろあるはずなので、機会があればぜひ参考にしたいものです。

 以上4つ、意外でもなんでもなかったと思われた方、なるほどと思われた方、いろいろいらっしゃると思います。私はこういうことについて人の経験を聞くのが大好きなので、翻訳者の諸先生方、どんなことが意外と役立っているか、教えていただけたらとてもうれしいです。
 結局、翻訳のヒントは至るところにある、ということかもしれません。近道はありませんが、無駄な道もないんですよね。そう考えると、近道を狙うのはたいへんつまらないことのように私には思えます。

(文責:ヘレンハルメ美穂

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