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出版翻訳家になんてなるんじゃなかった⁉

 2020年11月の刊行直後から翻訳者仲間の間でも話題になった『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』(宮崎伸治、三五館シンシャ発行、フォレスト出版発売)。翻訳者あるいは翻訳者志望の方は必ず読んでおいたほうがいい本だと思うので、ここで紹介させていただきたい。
 まず目を引くのが刺激的なタイトル。「出版翻訳家なんてなるんじゃなかった」なんて言われてしまったら、すでになってしまったわたしはどうしたらいいんだ……とおろおろしつつ、買わずにはおれなかった。
 翻訳家になるという夢を実現させた宮崎氏。その優秀さからあっという間に引っ張りだこになり、30代の10年間で50冊もの訳書を出すに至った。彼の体験談には翻訳者だからこそ味わえるキラキラした瞬間が散りばめられていて、共感することこの上ない。そうそう、これぞ翻訳者の醍醐味。だからやめられないのよね――しかしこの仕事は天国だけでは構成されていない。そこには多くの地獄も待ち受けている。宮崎氏の場合、自分が訳した本を他の人の名前で刊行される、何カ月もかけて訳した本を出版中止にされる、その他にも様々な地獄を見てこられている。しかも相手側の言い訳が「聞かなきゃよかった」と思うような屁理屈ばかりで、本当にあきれてしまう。
 それでも宮崎氏は、「他の翻訳者のためにも」と泣き寝入りはせずに、契約違反をする出版社や編集者を執念深く追い詰め、必要とあらば裁判も起こす。しかし不毛なやりとりの連続に次第に心を蝕まれていき、最終的には出版業界を去る決意をされたのだった。


 わたし自身も実は一度、本格的な地獄をみている。翻訳者になって数年しか経たない時期に、初めての出版社から声をかけられてある本を翻訳することになった。夏休みじゅう子供を保育園に預けて、三カ月かけて翻訳したのだが、その本は刊行中止となり、結果的に違約金も支払われなかった。つまり三カ月間完全タダ働き。そんなことなら、まだ幼かった子供と一緒に夏休みを過ごしたほうがよかった。担当編集者は何も言ってくれなかったので知らなかったのだが、その出版社は倒産の危機に立たされていて、社員は四分の一に減らされ、進行中だった多くの作品が刊行中止になった。編集者自身もとっくに解雇されていたのだ。
 当時のわたしは業界経験が浅かったこともあり、それ以上追及しようとはしなかった。「出版社が倒産しかけていて」と説明すると、経験豊かな先輩翻訳者たちも、「まあその場合はしょうがないね……」という雰囲気だったし。残念ながら、倒産がらみで訳し終わっていた本が出なくなるという話はちらほら聞く。今後翻訳者を目指す方々には、そういうリスクもある仕事なのだということは知っておいてほしいと思う。


 書籍業界に携わる北欧在住者でこの本に興味を示した友人が数名いたので、先日読書会を行った。そこで話し合われたのが「今後、翻訳者地獄に遭わないようにするにはどんな対策ができるだろうか」ということ。意見をまとめてみると以下のようになる。
① 信用できる編集者・出版社と付き合うこと。
 業界経験の浅いうちはどういう人が信用でないのかもわからないと思うが、宮崎氏の著書を読むと怪しい言動をする編集者がたくさん登場するので、それを例として頭に叩き込んでおくとよいかもしれない。
② 契約書は必ず作ってもらう。
 契約書を扱う部署にいる友人曰く、「世界は契約書で動いている」。ひ~耳が痛い。わたし自身、痛い目に遭うまでは契約書なんて完全に相手(出版社)任せだった。最近は「契約書を作ってください」と言うようにしているが、仕事を依頼された時点で作ってもらえることはまずない。(ただしメールのやり取りでも、契約としては有効らしい。詳しくは宮崎氏の著書を参照)出版社の言い分としては、契約書には発行部数と定価を記載する、しかしそれが決定されるのは刊行の一カ月前くらい。それでやっと契約書が作成できるという。なお、刊行の一カ月前というと、翻訳はもちろんのこと初校も再校も終わっている時期、つまり翻訳者としてやるべき仕事はすでに終えてしまっているタイミングだ。
③ 翻訳者同士で情報交換をする。
 わたしは仲間の翻訳者たちと、今までに出会ってしまった「ヤバい出版社・編集者」の情報を交換している。その中には複数の翻訳者の口から名前の挙がった出版社・編集者もいて、当然ながらそことは絶対付き合わないようにしようと心に誓う。他の人が自分と同じ目に遭わないように、見ず知らずの翻訳者仲間たちにも教えてあげたい情報であるが、こういった個人情報を悪口大会にならずにシェアするのがなかなか難しい気がして、うまいシステムを見つけられないでいる。ちなみに取引先の名誉のために言っておくと、これまでに刊行されたわたしの訳書の出版社・編集者さんたちは、皆さん人間的にも大好きな方ばかり。問題は刊行されなかった本の出版社・編集者なのだから。


 宮崎氏の著書の中で印象的だったのが、「トラブルが多い出版業界に身をおいておくには本人訴訟ができる程度の法的知識は身につけておくべき」というアドバイス。「翻訳学校でそれを教えたほうがいい」とまでおっしゃっていた。確かに翻訳者志望の方にこそ、翻訳技術だけでなく、どんなトラブルが起こりうるのか、なるべくそれを回避するにはどうしたらいいのかを知っておいてほしいと思う。
 本当なら宮崎氏にファンレターを送りたいことだが、この書評を、翻訳者全員のために闘ってくださったお礼に代えさせていただきたいと思う。
宮崎伸治氏 公式HP http://cindymiyazaki.cocolog-nifty.com/

(文責:久山葉子)

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