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アイスランド大学での学生生活

 アイスランドへの関心が高まり、学生の留学先にも希望する声が増えているらしいが、アイスランドでの学生生活についての率直な意見を目にすることは難しいようで、先日「実際どうですか?」と訊かれた。そこで、アイスランドで延々と学生生活を続けている私が、その経験と思うところを(とくにアイスランド大学での勉強について)いくらか書いてみることにした。

 下記に述べるのは、国立アイスランド大学で正規学生である場合なので、交換留学生用のプログラムや、レイキャヴィーク大学、アイスランド芸術大学についてはよく分からないことを、ここで予め述べておく。


 アイスランド大学の新年度がはじまるのは、夜に空が暗くなり、にわか雨や虹に遭遇しだす夏の終わりからだ。それから一カ月もすれば強風の季節になるけれど、8月のおわりから9月のはじめには、まだその気配はあまり感じられない。これから3月の終わりごろまで、晴れている日に空を見上げれば暗い空に踊るオーロラを見られるかもしれない。

 フルタイムの学生であれば、授業が始まる前に、最低30単位分の講義を登録していることだろう。第二言語としてのアイスランド語コースに在籍する場合など、必修科目だけで授業枠が埋まってしまう課程もあるが、ほとんどの学生は、履修したい選択科目を登録して新学期に臨むことになる。ちなみに、多くの講義の単位数は5~10単位なので、上限の40単位まで科目登録をしても、両手で数えられる以上の科目を履修することは通常ない。

 たとえ大学で勉強漬けの日々を送りたいと願おうと、教室で費やす時間は決して多くない。5単位の講義であれば、1週間のうちで教場参加が求められるのは1コマ90分(うち10分は休憩時間)のみだからだ。10単位の講義であっても、それぞれ別の曜日で計2コマの講義があるか、一度に130分(うち10~15分ほどは休憩時間)の講義時間しか設けられていない。土日開講の授業はないため、アイスランド大学で講義を受けなければいけない時間は、平日の5日間で平均すると最大でも1日で2時間半にも満たない。つまり、残りの時間を学生は自由に使うことができる。

 出席を取る講義は稀なので、意図的に欠席しても大した問題は生じないだろう。さらに、COVID-19の流行以来、教場での講義の多くはZoomなどで同時配信・録画されるようになったので、単位所得だけを目指すのであれば、出席の意義はより小さくなっている。その場でないと参加できない実習もあるので、もちろんすべてがオンライン授業で完結するわけではなく、さらに機材トラブルなどで配信や録画が充分なものでない可能性もあるが、教室にはいかず録画を倍速で見ることにすれば、学生の自由時間はさらに増えるだろう。昨今の授業形式の変化は、遠方に住む学生らにありがたいだけでなく、インターネット環境とコンピュータ機器を不自由なく使える学生にとっては、自身の時間の使い方に幅を持たせたように見えなくもない。

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(中世のアイスランド語写本で使われた塗料を再現する実習。アラビアゴムと卵を使ったときの色の違いなどを調べた。これは、オンライン配信や録画はされなかった。)


 少ない講義時間のほかにも、労働局の許可なしにはアルバイトもできないことや、日本の大学ほど活発なサークル活動もないことなど、日本人学生がアイスランドに留学した際に驚くことはいくつか予想できる。一見すると、テストやレポート提出の前だけに踏ん張りさえすれば、アイスランドでの学生生活はひどく暇で、好きなだけ遊んで過ごせるように思えるかもしれない。たしかに日本の大学にいた頃と比べれば教室にいる時間は少ないだろう。けれども、授業外での自習時間が膨大に必要だろうことを覚悟しておくべきだ。

 すくなくとも私は、アイスランドの大学および大学院の授業期間中、たまの息抜きを除けば、大部分の時間を大学か図書館での課題や予復習に費やしている。これは留学生一般に当てはまることかもしれない。また、学問分野ごとに実態は違うだろし、交換留学用のプログラムか正規学生用のプログラムかでも、そしてもちろん授業ごとに違いはあるだろうが、すくなくとも私の場合は、一日中活字と向き合っている。様々な言語で書かれた文献を大量に読まなければいけないことが、その原因のひとつだ。

 アイスランド文学についての講義でも、交換留学生向けの授業では英語以外の文献を扱うことは珍しいようだが、正規学生向けであれば、アイスランド語と英語のほかに、ドイツ語やデンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語の論文を読まなければならないことは珍しくない。とくにサガやエッダを筆頭にした中世アイスランド文学を学ぼうとしたら、上記の各言語を読むことは必須で、対象作品によってラテン語やフランス語の知識も必要になる。

 アイスランド語以外の北欧語がまだほとんど分からない私は、おそらくアイスランド人学生の3倍以上の時間をかけて文献を読んでいる(読んだ気になっている)。ときには、「アイスランド人なんだからデンマーク語じゃなくてアイスランド語で書けよ!!」と偉大な先人に八つ当たりすることもあるが、日本では得難い文献や知見を得られることは確かで、毒づきながらも活字の海に溺れかかることを楽しんでいる。だが、これが万人にとって悦ばしい状況ではないのは確かだ。実際、週末に大学内の学生バーやダウンタウンで羽を伸ばしながらも「大量の課題や予復習に苦しみしか感じない」と悲鳴をあげていた学生も目にしたことがある。

 ところかわって工学やコンピュータサイエンスなどの分野では、講義がアイスランド語で行われるとしても、英語の論文以外を読むことはほぼないようだ。つまり、アイスランドの大学や大学院に通うためにはドイツ語や北欧語の理解が必須、ということではない。もし心配であれば、日本にいるあいだに自分がアイスランドで学びたい分野の論文や本を読んで、英語のほかによく使用される言語がないか確認しておくと、アイスランドでの大学生活が始まってから驚愕することはないのではないか。


 もちろん、アイスランド大学に通っている学生の誰もが勉強が好きでたまらない、というわけではない。なんとなく大学に通っていて、単位取得と卒業だけを目指している人ももちろんいる。何年も大学に通い続ける人や、卒論や修論を書かないままフェードアウトする人もいるし、企業などに就職しながら大学に通っていたり、定年後に大学院に通いはじめる人もいる。赤ん坊を抱えて講義に参加する人も珍しくなく、本人の胆力に感心するばかりだが、フルタイムで働きながら博士課程で勉強するシングルペアレントの知人もいる。これは、基本的には入学試験がないだけでなく、留年を気にする風潮や新卒一括採用がないことや、学費ならぬ登録料が年間7万5000 ISKのみであるためなど、様々な要因からアイスランドでは気軽に大学や大学院に通うことができるからかもしれない。

 ただ、アイスランド滞在に学生ビザが必要な人々は、ビザの取得・更新のためにフルタイムの学生として単位を取得しなければならない。とくに講義に慣れないうちは、フルタイム(労働と同様とするなら週40時間)の勉強時間でも足りないかもしれない。アイスランド人が毎週末バーで騒いでいるのを横目に歯ぎしりしながら机に向かわねばならないこともあるだろう。何を目的にアイスランドへ留学するかは人それぞれであるが、あまり勉強する気がないのであれば、日本での学生生活の方がよほど自由に時間を使うことができるように思う。

 私が日本で大学生だった頃は、毎年上限まで科目登録したうえで、自由になる時間が大量にあると感じ、アルバイトをしたり大学図書館で気ままに本を読んでいたが、同様のことはアイスランドでは難しかった。授業がない見かけ上の自由時間はたくさんあるものの、そのほとんどは講義のための勉強に消えていく。しかし、それでも私にとってアイスランドでの学生生活は最高に楽しい。それは、幸いにも自分が好奇心や知識欲が盛んだからだろうか。

 アイスランド大学での学生生活を話題にしていたとき、「もう大学には行きたくない」とこぼした友人もいるが、すくなくとも私にとって、アイスランドでの学生生活はとても充実している。膨大な文献を前にして途方に暮れ、ときには呪詛を吐きたくなることがあったとしても、職業、性別、年齢などを気にせずに学び続けられる環境が確かにあるからだ。

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(日々の勉強で気が滅入ってきたときには、毎日営業している学生バーで昼間からビールを飲むこともある。)


 アイスランドに留学することでしか得られない経験は、もちろん勉強以外にもあるが、それなりにしっかり勉強しなければならないことは、覚悟してから留学する方が、アイスランドでの学生生活を楽しめるだろう。


文責:朱位昌併

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