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【50代の大学生日記 第20話】奥深き墨の世界

 書道用品店でパートのおじさんを始めた私。実は40歳過ぎから鬱の予防のために創作系の趣味を持とうと書道を始め、先生に習いに行くでもなく自己流で研究し、しばらくは順調に昇級していたのですが、二段ぐらいから年に1度の昇段試験に一発合格できなくなり、それでもどうにか四段まできたものの、五段の試験には去年まで5連敗。しかも5回とも合格点(5科目で425点)にあと5点足りないだけという残念ぶり。今回は苦手科目「実用書道」の攻め方を大きく見直し、連敗ストップを狙ったのですが……

先週送られてきた成績票を見ると、今年もまた5科目合計425点の合格ラインに「あと5点」届かず不合格。それも「実用書道」が合格ラインだったのに、比較的得意科目の「かな」で点を落とすとは… ということで、7年連続四段のままが確定(泣)

 というわけで、一応趣味を活かしたお仕事(?)に就いた私なのですが、先日倉庫で墨液の棚卸しをしていて、あまりの商品数の多さに「なんでこんなに種類があんねん!」と叫びました。「墨に五彩あり」と言われるように、墨は黒の中にも紫紺系や赤系、青系などの色調があり作品によって使い分けるとよいことは知ってるし、子供お習字用と先生の作品用は、よ~わからんけど何か違うんやろということは理解できるし、書く作品に合わせて濃墨やら中濃やら普通濃度やら(ソースかっ!)があるのも知ってた。にしても、扱っている墨屋さんは2社だけだというのに酒屋さんもびっくりの銘柄の多さ。疑問に思ったときこそ学びのチャンス。これを機に墨について勉強してみました。お仕事のための備忘録のつもりでnoteに書いておきます。

 日本書紀によると墨は西暦610年に大陸から伝えられたそうで、日本では当時の都であった飛鳥で国産化されたのち、奈良平城京に遷都されてから奈良で作られるようになったようです。京都平安京へ都が移ってからも奈良は学問の中心地だったため、墨は奈良で生産され続け、今日も墨の全国生産量の90%が奈良で作られています。いやしかし、なんで京都に墨屋さんがなく今もずっと奈良なのか、すごく不思議です。桓武天皇は奈良の寺社が力を持ちすぎて政治に口出しするようになったのが鬱陶しくなり、リセットするように京都へ遷都したあとも既存の寺社は京都へ引っ越すことを許さず、逆に唐で新しい仏教を学んできた空海には東寺の土地と寺を与えるなど庇護を与えたと、大学に入ってから学びました。墨屋さんも既存仏教とずぶずぶの関係で京都へ連れて行ってもらえなかったのでしょうか?

 それはさておき、固形墨煤(すす)膠(にかわ)香料の3つが原料です。煤には大きくわけて植物油を燃やして採取するもの(油煙墨)松の木や脂(やに)を燃やして採取するもの(松煙墨)ファーネス法と呼ばれる方法で石油を燃やして煤を工業的に生産したもの(カーボンブラック)の3つがあり、油煙墨は煤の粒子径が15~80nm(1nm=0.000001mm)と細かくて均一なのに対し、松煙墨は30~400nmと比較的大きめでばらつきがあるのが特徴です。粒子の径にばらつきがあると書いた文字の表面で乱反射が起き、厚みのある黒に見えるようです。ファーネス法は安価で粒径のバラツキが少ない煤が得られる方法で、安価な墨液に使われます。
 は牛や馬の皮や骨を水といっしょに煮込んで得られる水溶性の動物性たんぱく質、早い話が「煮こごり」のことです。
水に煤を投入してかき混ぜても煤は水に溶けず、時間が経てば泥水の泥(土)が沈殿するのと同じように、煤は底に沈み、黒い水になることはありません。ところが、水に煤と膠を入れてかき混ぜると、煤のまわりを水溶性の膠が取り囲み、あたかも煤が水に溶けたような黒い水の状態(膠が保護コロイドになった状態)になります。つまり煤と膠と水を混ぜてやれば墨液ができ、水を少なくして練れば固形墨ができるわけです。とはいえ、膠(動物性たんぱく質)は腐りやすく、放っておくと加水分解が進み、寒くなるとゲル化(寒天状になる)してしまい、そのままでは保存がききません。同じ動物性たんぱく質の肉を長期保存するには、干物(ジャーキー)にするか塩漬けにすればよいわけで、この練ったものをジャーキーと同じようにとことんまで乾燥させて(干物にして)やれば長期保存ができます。すなわち煤と膠のほかに香料を混ぜたものを練って、型にはめて成形し、その後何カ月もの時間をかけて乾燥させれば固形墨ができあがります。ただも入っていればよいというものではなく、膠が多いと淡墨では色が冴えて基線(筆で書いた部分)が強く表現され、そのまわりのにじみがきれいに出る反面、黒みが減るようです。逆に膠が少ないと、粘りのある成分が少なくなるので筆運びが軽くなるとともに基線がしっかり表現され、黒が力強く表現されるようです。
下写真では筆で書いた部分とそのまわりのにじんだ部分のコントラストが違っています。この筆で書いた部分基線です。

 さて、墨は古いほうがよいとされており、100年ものの古墨なんていうのも市販されています。私は墨の新旧の違いなど気分的なもんやろと思ってましたが、これにもちゃんと科学的根拠があるようです。墨が古くなると時間をかけて膠の加水分解が進行し、煤粒子の周りをしっかりガードしていた膠が減ることで、いくつかの煤粒子がくっつきはじめ(凝集)、そのまわりを膠がガードし、あたかも大きな煤粒子ができたような状態になります。これは言い換えれば、古墨は時間とともにどんどんと前述の膠の量が少ない墨に近づいていくわけで、基線がしっかりと表現されるようになります。これは、凝集により径が大きくなった煤粒子は紙の繊維に引っ掛かって筆で書いた線から移動しない(できない)のに対し、凝集せずに残った粒径の小さな煤だけがにじみとなって基線の外へ広がっているため、基線がしっかりとした黒、にじみが薄い黒のコントラストがきれいに現れるというわけです。上の写真は新墨をすったばかりの墨で書いているので(古墨なんて私には買えないからね・・・)コントラストが不明瞭ですが、古墨だと比べものにならないぐらいクッキリするようです。  
 古墨に似たものに宿墨(しゅくぼく)があります。宿墨はすりおろした墨をそのまま数日間寝かせたもの、すなわち動物性たんぱく質の膠が腐った墨で、当然臭いもきついです。科学的には古墨ができるのと同じ過程を超早回しで行っていることになるのですが、進行が急激すぎてコントロールできず一気に腐敗にまで至るので、古墨に比べて墨色が悪く古墨のような美しさはないとされています。でもこの退廃感がいいのだと、あえて宿墨を使う人もいるようです。

 では墨液(液体墨)はどうやって作るのでしょう? 賢明な方はすでにお気づきでしょうが、すりおろした墨をそのまま容器に入れといても数日たてば腐って宿墨になってしまい、そのままでは墨液になりません
というわけで、次は墨液って何? という話題です。
さっき、膠(動物性たんぱく質)を長期保存するには、干物にするか塩漬けにするかという話をしました。そう干物にできないのなら塩漬けにしてさらに防腐剤をぶちこめば膠入り墨液でも腐らないですよね。そういうわけで、一般に市販されている膠系の墨液は塩化カリウム防腐剤が入っており、腐らないようになっています。しかし塩化カリウムは吸湿性が高く、墨液に使うとなかなか乾かない、表面だけ乾いたと思っても完全に乾いておらず表装しようと水につけると墨が流れてしまう、混ぜ物の影響で筆や硯を傷めやすいなどの欠点があります。固形墨を使ったあと筆を洗うときはすぐに墨が取れるのに、墨液を使ったあとは洗っても洗ってもなかなか墨が取り切れないというのはすごく実感できますね。墨液で書いてたら筆が割れやすいし・・・・・・ ほんならどないすんねん?? 「だったら膠を使わなきゃいいじゃん」ということで、世の中の墨液の多くは膠の代用品としてPVA(ポリビニルアルコール、ポバール)という「水に溶ける合成樹脂」が使われています。PVAを使っている墨液は膠よりも表面張力があるので、墨色の変化が乏しく水性塗料のようだともいわれてます。

 というわけで、ここまでで固形墨(膠入り)墨液(膠入り)墨液(PVA)の3種類が登場しましたが、どれがよくてどれがイマイチなのでしょうか? 作品にするには固形墨をすって使うのがベストであることは間違いないようです。でも墨液でも膠入りがよいのかといえばそこは難しいところで・・・・・・  子供の頃に習っていたお習字の先生(本業は牛乳屋の大将)は、「ええ墨かどうかは乾いた後の光り方でわかる。安物の墨液は光り方がいやらしい」とPVA墨液にダメ出しをしていました 。今から思えば表面張力の大きいPVA墨液は書いた部分にきれいに墨が広がって1枚の膜のようになり膠とは違ったぎらぎらした光り方になるわけで、先生の感覚も言い得て妙だったんだと思えます。このように固形墨の膠の光り方が最高だという固定観念がある人は墨液にも膠を求めがちで、私もうちにある墨液を見てみたら膠入りのものばかり買っていました。でも塩化カリウムや防腐剤も入っているので、作品づくりには使わないほうがいいし、筆が傷みやすいし、むしろ練習用や表装にしない毎月の課題作品には、これからはPVA墨液も積極的に使おうかという気になりました。


呉竹 超高級墨液「松潤」 250ml ¥7,260(税込)

 なるほど、墨色やにじみまで計算して描かれた芸術的な作品をちゃんと表装して後世に残そうとするならば、固形墨を使うのがベストだということがわかりました。でも、墨をするのは時間がかかるし、けっこう重労働だし、私のようなイラチはついつい力まかせにゴリゴリとすっちゃうので煤の粒の径が安定しないっていうし・・・・・・
気に入った作品ができるまで何枚も書いていらっしゃる先生方は毎日どんだけ墨をすっているのだろう?? と思っていたら、世の中にはこんな商品があるのでした。

自動墨すり機!!
私が書道を始めたころからこいつの存在を知ってましたが、こんなの誰が使うんだろう? と思ってました。今の仕事を始めてから、私にとっては意外なほどに書家の先生の間では自動墨すり機が普及していて、けっこう売れていることがわかりました。写真のマシンは墨運堂の「SS型墨すり機 墨磨職人」という商品で税込定価¥21,780です。これより大きな墨を2丁取り付け可能な大容量タイプの商品もあります。マシン上の円盤硯(すずり)になっていて、円盤が回転することで墨がすれます。昔は往復式と回転式のどちらがよいかが商品選びのポイントでしたが、現在は回転式が主流のようです。この商品のすごいところは、円盤が回転軸に対して斜めになっていて墨は常に上下しながらもカウンターウェイトによって一定圧で硯に押し付けられていることです。つまり硯と墨は面当たりではなく、常に線当たりでやさし~くすられるのです。これなら私がイライラしながら力まかせに墨をするより格段にいい墨ができるというものです。

じゃあ、最近はやっている「パフォーマンス書道」の墨はどうやって作っているの? 墨すり機を何台もフル回転?
これも墨液の棚卸しをしたときに初めて見て驚いたのですが、「パフォーマンス書道用の墨液」という商品があります。

写真は呉竹の「パフォーマンス書道液」10kg 税込定価¥11,000
PVA墨液ですが、パフォーマンス後に作品を持ち上げたときに墨が垂れないように『超々々濃墨』(呉竹HPに記載の表現)に仕上げてあるそうです。ふ~ん、墨にもいろいろあるのね。

結論 「なんで墨液にこんなに種類があんねん!」という私のそもそもの疑問に対しては、わかったようなわからんような答えですが、まあ墨にも使う人や狙いとする使い方によって、ベストフィットするものを市場に供給するには、いろんな種類の商品ができちゃうということのようです。ではまた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。


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