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嵯峨野ぐらし24 ご近所を歩く

 トップの写真は新緑がまぶしい今朝の嵐山です。方角的にこのあたりの山に日が当たって緑がきれいに見えるのは朝だけです。ちょっと早起きして散歩すれば、この景色が見えるとは嵯峨の住民の特権ですね。
 今日はそんな嵯峨に住む私がちょっと歩けば行けるぐらいのご近所にある観光地ではないけど京都らしいスポットを紹介します。

油掛地蔵

 ひとつめは油掛地蔵さんです。どこにでもあるちょっと立派なお地蔵さんのようですが、近くで見ると・・・

油まみれの石仏

油まみれ!!! それに油くさい!!! 
手前の器には食用油が入っていて、ひしゃくで仏様に油をかけてお参りします。ご尊顔も見えないぐらいに黒くなっています。江戸時代初期に記された旅行記によると、「西暦1680年に嵯峨に行ってみたら、油売りの商売の人がここを通るときは必ず油を掛けてお参りをするという地蔵があったぜ。でもその由来は誰も知らないそうだぜ(意訳)」というような記述があり、少なくとも江戸時代からこのスタイルで信仰されていたようです。ただ、この石像のビジュアルはよく見る「お地蔵様」とはちょっと違っており、なんとなく「大日如来様」のように見えるということで、長年「たぶん如来だけど地蔵と呼んでおこう」という扱いだったようです。仏教的にはお地蔵さんは「地蔵菩薩」で、菩薩というのは「悟りを開いていない、ランクが下の仏様」、大日如来の如来「悟りを開いている、ランクが上の仏様」という意味で、如来なのに地蔵と呼ぶのはけっこうバチ当たりな行いです。でもそれだけで終わらないのが千年の都京都のおもしろいところで・・・
1978年(昭和53年)、研究のため長年積み重なりコテコテになった油を洗い落として調査したところ、この像は「大日如来」ではなく「阿弥陀如来」だったことが判明。さらにこの像は旅行記に登場する江戸時代初期よりはるか前の西暦1310年に造立された「重要文化財級」の石仏であることがわかったのでした。けっこう謎が深そうですね。このように京都には「観光ではまず行かないようなところ」にもいろいろとおもしろいものがあります。次もそんなスポットの紹介です。

ルルゲさんの立て札

 ふたつめは「ルルゲさん」です。私と同世代の人たちは「超人バロムワン」の悪役で「ドドドドド、ドルゲ~」と登場する「ドルゲ」を思い出しそう。バロムワンで赤いランプがついた怪しげなバスに吸い込まれるように子ども達が乗り込んでしまうが、実はそれはドルゲのバスで、さらわれた子ども達がドルゲの手下たちにいたぶられるという回があり、それが頭にこびりついている私と同世代の京都っ子は京都市バスの最終バス(最終だとわかるように行先表示のところが赤く光っている)のことを「ドルゲバス」と呼んでました(笑)
閑話休題、それにしても、「ルルゲ」って何ですのん? 写真の立て札も店屋さんの軒先の自販機の脇の見落としそうなところに立ってるし・・・
そしてこの札の向かって左側のちょっと奥まったところには、

ルルゲさん

こんな巨石が立っています。
立て札の解説によると、西暦1314年日蓮聖人の孫弟子の龍華樹院日像聖人車折神社法華経の布教活動をしているときに他宗徒の迫害を受けて追い回され、甲塚古墳(兜塚古墳)に走り込んで身を隠して難を逃れたことに感謝し、古墳の石蓋に「南無妙法蓮華経」のお題目を刻んだとされており、「難を逃れるご利益がある石」としてその石蓋が写真のように奉られているとのことです。この呼び名は日像上人が呼ばれていた「龍華樹院(りゅうげじゅいん)さん」が訛って「ルルゲさん」になったのだそうな。
 ちなみに甲塚古墳古墳時代後期(6~7世紀頃)に作られたとみられる直径38メートルの円墳で私有地(造園屋さんの庭)にあります。都が京都に移るよりずっと前にこの地を治めた豪族にして、日本に酒造り機織り土木をはじめとする技術を大陸から伝えたとされる渡来人 秦氏の誰かの墓だろうとされています。嵯峨や太秦界隈にはこのような古墳が、住宅の玄関先などまさかと思うようなところにあり、びっくりします。これもまたの機会にご紹介します。

長慶天皇陵入口

 最後は長慶天皇陵です。嵐山にあるのですが、細道を入っていった奥まったところにあるので観光客が来ることもなく、地元の人でもこんなところに天皇陵があることを知らないうえに、日本史で華やかに語られることもない人なので「長慶天皇って誰?」と言われがちです。私もいろいろと調べてみるまで長慶天皇を知りませんでした。それもそのはず、「長慶天皇と呼ばれる人はそもそも天皇だったのか?」という議論が決着し「天皇だった」宮内庁から公式認定されたのが1926年(大正15年)になってからだったのです(驚)
 長慶天皇は南北朝時代の南朝の3代め(日本第98代)の天皇で、即位したときに南朝はすでに弱体化し吉野に山ごもりしていたうえ、彼は北朝の和睦交渉に対して強硬な姿勢をとり話し合うこともなかったため歴史上の舞台に登場することもなく、史料もほとんどないそうです。つまり「天皇だったのか?」とされる期間はずっと山にこもって社会とは隔絶された生活を送っていたわけで、ここが天皇かどうかの議論となっているのです。天皇の座を弟(後亀山天皇)に譲ってからの行動にはいろんな説があり、陵墓ではないかとされる場所も全国にあるようです。有力な説のうちのひとつが、「彼の息子が嵯峨の嵐山に住んでいたから老後は嵯峨で暮らしたのではないか?」と推定される説で、嵯峨にあるそれらしい墓を宮内庁が天皇陵に認定したようです。(ほんまかどうかかなり怪しげ・・・ 写真のように宮内庁の看板が立てられ厳重に管理されているので、調査もできないですが・・・)
驚いたことに別の説では、彼は譲位後に南朝への支援を求めて全国を旅したとされており、今の青森県南部地方で食べる物に困っていたときに、家来の赤松助左衛門が農家で手に入れた蕎麦粉と胡麻を使い、鉄兜を鍋代わりにして煎餅を焼いて、天皇の食事に出したところ美味であったため、これが現在の「南部煎餅」になったとされています。(八戸煎餅組合で公式に創始起源とされている説、なので南部煎餅には赤松家の家紋「三階松」が焼き入れられているらしい)
私が八戸で食べて美味さに感動しておみやげに買って帰った「南部煎餅」「煎餅汁」の起源に関わる人の墓がうちの近所にあるなんて・・・ 驚きです。青森の方、京都観光の折には是非お立ち寄りください。

長慶天皇陵は宮内庁が管理

余談ですが、一休さんでおなじみの一休禅師後小松天皇(北朝第6代、日本第100代天皇)のご落胤、つまり皇族なので、彼が晩年を過ごした京都府京田辺市にある酬恩庵(通称一休寺)にある彼の墓は、お寺の中なのにそのまわりだけ宮内庁に厳重に管理され、立入禁止になっています。

 いかがでしたか、今日、朝食前に少しばかり散歩しただけでもこれだけ巡ることができました。嵯峨にはおもしろいスポットがまだまだありますよ。嵯峨へ移住したい方に朗報です。今ならうちの隣室が空いてますよ(笑)
では次回をお楽しみに。

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