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きっとまたいつかこの詩に触れる

カフェの棚に並ぶ「茨木のりこ」に聞き覚えがあって、なんとなく引き抜いた本。目次を見てはっとした、『自分の感受性くらい』だ!

「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」
この衝撃的な一節を初めて見たのが、中学受験の時だったか中高の授業だったのか覚えていない。
でも、よく分からんと思ったことは鮮明に覚えている。小中高と慢性的な反抗期だった私は、前半を読んで「なんだ更年期の話か」と解釈した。「自分の感受性」なんて守るものでもなくない?と思った、確か。でも読解問題として出ている以上考えないわけにはいかなくて、自己責任論に結びつける形でなんとなく理解してなんとなく解答して今の今まで忘れていた。

衝撃だった。改めて読んで自分への入り方がこんなに変わるなんて。

感受性なんて守るものではなかった。剥き出しの感性に触れるか触れないか、動かないなら興味はない。それだけで動けていた時代がなんと幸せだったか!
中高時代なら4,5年前、中学受験時代でも10年前。今もまだ21歳の若輩者のくせして、この詩の解像度が少し上がってしまっている。

感受性を失わせるのは、諦めだ。傷つくことを恐れて、傷ついたことに悲しくなって、こんな傷つくなら捨ててしまえと放棄する。防衛して諦めて、諦めたことを諦めて、積もり積もった自責を降ろす先がなくて誰かに投げつけてしまう。
最後は、心を動かすことに体力を使うようになって、動かすこと自体を恐れ始める。

ぬるま湯のサバンナから、ルールの整った競技場だった女子校生活から踏み出して、大学という異種格闘技オープンワールド(武器禁止)に歩みを進めただけで、もうたくさんのものを諦めたというのか。

諦めないって、諦めないだけじゃない。諦めなかったことに、もう一度傷つく覚悟を決めることだ。
諦める覚悟は一回でいいのに、諦めない覚悟にはこれから何度も諦めない覚悟をすることが含まれている。

守らなきゃいけない。自分の感受性は。きっと気づいた時には復旧できるものは限られていて、だからこそ小さなことを諦めずに何度も何度も傷ついて、傷だらけになっては瘡蓋を作って、また剥がれて。だんだん皮膚は固くなる。新陳代謝を起こすために必要なのは、栄養と運動だろう。

またいつかこの詩にふと出会った時、ああ捨ててしまったな、と思わない生き方をしたい。

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