見出し画像

ちょっとそこまで #3

シューズさえ買えれば良かったのに。
気付けばTシャツ、ハーフパンツ、靴下、ウエストポーチが増えていた。
レジまでシューズを人質にとられながら、
「あった方が良い」
「走りやすくなる」
「疲れない」
などと言いくるめられ、合計金額は2万円を超えた。
それにしても店の配置が絶妙で、シューズコーナーからレジへ向かうまでに全ての装備が揃うように出来ていた。悔しいけれどちょっとだけ感心して帰宅。

家に着き、ひと息ついてから購入した物を開封。
タグを外す際にチラッと見える数字でため息。
箱からシューズを取り出して、とりあえず机の上に置いてみる。
全体的に紺色だか、紐はオレンジで、特別派手さはない。持ち上げてみる。軽い。普段履いているスニーカーとは比べものにならない。
靴底は綺麗だし、部屋の中で履いてみる。
踵をとんとん紐きゅっと。
とりあえず両足にはめてみる。
ちょっと歩く。
うろうろ。
うん、走らないと良く分からんね。
シューズを脱いで、時計を見る。まだ昼過ぎだ。こんな暑い日に、しかも昼から走るなんて正気の沙汰ではない。暗くなってから、涼しくなってからにしよう。

シューズを履いて、時計を見る。もう20時になろうとしていた。
どうしよう。何か緊張する。
本日購入した装備を身につけ、ザ・ランナー、といった出立の30男が部屋の真ん中に突っ立っている。
え、間違ってないよね?変な格好じゃないよね?
姿見鏡の前に立ち、3度目のファッションチェック。
運動不足による細い腕、足、ポッコリお腹。我ながら情けなくなる程のイケテナイ体躯。剥き出しの膝下に生茂るスネ毛が哀愁すら漂わせている。
それらを目の当たりにする度に、私は面接前の就活生の如く硬い表情をすることになった。

新しいことをする前は楽しいのに、新しいことをする時は何故こうも不安になるんだろう。
しかもランニングなんて自転車の為の体力作りでしかないし、やらなくても良いことなのに。
なんかもう、やる気が削げていく、、、
でも、2万もかかってんだよなぁ、、、
自分でやろうと決めた事だし、さ。

よし! やる! もう走る!

妙なテンションで無理矢理やる気を奮い立たせ、勢いそのままに外へ飛び出した。
周囲は暗く、外灯と家々の灯りがぽつぽつと輝いている。日中に比べれば大分マシだか、やはり蒸し暑い。半袖短パンの姿の私でさえそうなんだから、普段着の人らはもっと大変だろう。
と、
普段着の方が目の前を通過。
反射的に俯く。あれ?なんでだ?
買ったばかりのシューズを凝視する。
そうか、恥ずかしいのか。
人にどう見られているか、とか。
人の顔色、とか。
そういうところを気にして生きてきたから、必要以上に人の目が気になってしまう。自意識過剰と言われればその通りなんだけど。
まったく、30にもなって情けない。
不安になる。心臓が痛む。ストレスを感じている。

そんな時、温い風が吹いた。
同時に、スネ毛がそよいだ。
ふわあぁぁさ、、、って感じに。
見た瞬間、なんかどうでも良くなって可笑しくなった。なんで俯いて、立ち止まってるんだ?
全然疲れてないのに。
歩く。
身体は重いが、シューズは軽い。
5m先の地面を見る。
歩く。
人の気配を感じる。
シューズを見る。
歩く。
2m先の地面を見る。
息を吸って、
走る。

ドンッ、トンッ、ドンッ、、、
重い音が足下から響いてくる。アスファルトを弾く音だ。呼吸は、分からない。2回吸って2回吐くんだっけ?
考えてみれば走るのなんて部活の時以来だろう。たかが走るだけ、のやり方をすっかり忘れている。
思い出しながら走っていると、また人が。
仕事帰りと思われる若い女性が、こちらに向かって歩いてくる。
あ、どうしよう。
恥ずかしい、どんな顔してれば?
どうしよう、引き返そうかな。
また俯く。シューズは前後に振れていた。
これは止まらないやつだ。
いつの間にか女性は後方にいた。まるで私の存在など意に介していないのだろう。
考えてみればそうか、他人が歩いていようが走っていようが関係ない。
なんかもぉ、走る前の不安感や緊張感、あれは一体なんだったのだろうかと。
苦笑し、身体が軽くなる。
景色がゆっくりと変わる。
何分経っただろう。呼吸が苦しくなる。
スッスッ、ハッハッ、スッスッ、ハッハッ、、、
膝に違和感を感じた。明らかに疲労が溜まり始めている。けれど、止める気にはならなかった。

タイムも距離も心拍数も測っていない。記録はない。
だから私が今日、走ったという事実は証明しようがないけれど。
軽くなった心と身体は事実だった。
汗だくで家に着く。時計を見る。
時刻は21時を過ぎていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?