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多様性を守るために、アジア系学生を制限!?:ハーバード大VSアジア系受験生❷

ハーバード大の言い分:大学の多様性を守るために、特定人種に対する入学優遇措置は不可欠

「アジア系受験者に不利な措置はとっていない。他の人種を優遇しただけ」というような主張を繰り返すハーバード大学ですが、実際には、アジア受験者が不利となる入試プロセスをとっていることを認めているような発言もしています。

裁判の全てを見ているわけではありませんが、”切り抜き”として取り上げられている大学側弁護士の解答には以下のようなものがあります。(メモをとりながら聞いていませんでしたので、会話の再現はざっくりなものになります)

  • アジア人差別はしていない。黒人とヒスパニックを優遇しただけで・・・モゴモゴ(判事「それは加点を得ることができないアジア系学生にペナルティを与えていることになりませんか?」のツッコミ)。

  • アメリカにおけるアジア系の人口割合を考えると・・・モゴモゴ(判事「受験者の応募比率はどうですか?」)。

  • 特定の人種への加点を止めれば、黒人やヒスパニックの学生の割合がかなり少なくなってしまう。これは多様性が求められる大学の教育環境として、ふさわしくない(判事「人種の多様性が、大学の教育環境としてメリットがある具体的な事例は?」)。

極め付けと思われるのがハーバード大学の弁護を担当しているセス・ワックスマン弁護士の次の発言です。

ハーバード大学の弁護を担当したセス・ワックスマン弁護士:
ハーバード・ラドクリフ管弦楽団がオーボエ奏者を必要としているとしに、オーボエ奏者が採用されやすいのと同じように、一部の優秀な志願者にとって、人種は決定要因になり得る。

多様性のある教育環境が、学生に多様な視点からのアプローチを可能にさせるからというのです。人種に配慮した入試プロセスは、大学のダイバーシティを保つ1つの手段であるといいます。それに、ダイバーシティを実現する際に、考慮するのは人種に限定されたものではなく、人種はあくまでも多様性を支える指標の1つに過ぎないとも。さらには、ダイバーシティというのは、今や多くの企業が従業員(大学の卒業生)に求めることでもあり、大学としてはこの点も見過ごせないとしています。

この主張もここだけさらっと見ると、何となく正しいことを言っているような響きがあります。ただ、一応、ツッコミを入れておくと、オーボエ奏者が欲しい楽団はオーボエ奏者を募集しますので、その枠をめぐってトランペット奏者が応募してくるようなことはないかと。
裁判資料から、人種ごとの割合が毎年決まっているようだとのことでした。その上で、この「オーボエ奏者がー!」の主張をしたいのであれば、最初から募集要項に、人種ごとの募集人数を書いおけば、良いのではないかと思います。

ダイバーシティの問題点

ダイバーシティよりも、重要なインクルージョン

ちなみにダイバーシティというコンセプトは、アメリカの民間企業の人事レベルでは、「これだけでは不十分」だと考えられています。企業理念等には、ダイバーシティの先にある”インクルージョン”か、もしくは”D(ダイバーシティ)&I(インクルージョン)”としてその両方を掲げることが多くなっています。きちんと調べていませんが、おそらく10年以上前にはすでにインクルージョンもしくは、D&Iに移行していたと思います。

では、ダイバーシティとインクルージョンとで何が違うのか?といえば、その違いを説明するものとして、よく使われる例えは、:

ダイバーシティはパーティーに招かれること、
インクルージョンは踊りに誘われること

です。これはとても重要な点だと思います。

人種よりも、性別に関するダイバーシティとインクルージョンの方がイメージがつきやすいかと思いますので、性別に関してのケースで例えを作るなら・・・

”課長クラス以上の女性社員が30%います”というのは、その企業がダイバーシティを実現した状態。しかし、”その企業の社員が女性上司の下で働きたくないと考える傾向にある”という状態であるのならば、その企業ではインクルージョンの状態にはない・・・といった感じでしょうか。

ダイバーシティというのは、組織のトップによる意思決定次第ですので、ある意味、トップが数合わせすれば実現可能となりますが、インクルージョンは、組織構成員が重要性を理解し、それを態度や発言、行動に反映させる必要があり、ダイバーシティより実現が困難です。企業がダイバーシティの代わりにインクルージョン、またはD&Iを掲げるようになった背景には、ダイバーシティでは問題が解決できなかったという自らの経験があるようです。

ダイバーシティの中にある地雷

前章は企業の人事でよく言われている、ダイバーシティの問題点ですが、この章ではあくまでも私個人の考えとしての、ダイバーシティの問題点についてシェアさせていただきます。

私は旅好きだったこともあり、アフリカ、ヨーロッパ、中東、アジアの人々と宗教や文化的な違いについて雑談レベルでの語り合いや、ディスカッション等に参加する機会があったのですが、この手の話題を出すときに、言葉選びから、時には質問することさえも、慎重に慎重を重ねざるを得ないのが、相手がアメリカ人・・・というよりもアメリカという場所で議論する時です。

例えば、相手が「あれ?アメリカ出身ではない人かな?」と思った時に、出身地について尋ねるというのは、ごく普通の会話としてあり得るものだと思うのですが、出身地を尋ねることは、相手によっては、これがNGクエスチョンだったりすることがあります。なぜかといえば、出身地を尋ねるという質問の前提には、「あなたには”アメリカ出身者ではない表現”があり、私はそれに気がつきましたよ」ということがあるからです。

実際、相手がアメリカ出身者ではないことに気が付くきっかけは、多くの場合、英語のアクセントです。そして、これは私の感覚的な統計によるものですが、英語の発音に一番こだわりがあるのがアメリカ人です。アメリカ英語と言っても、ニューヨークとカリフォルニア、そしてテキサスでは全くアクセントが違い、それはそれでお互いに揶揄しあったりしているようですが、それ以上に外国人のアクセントを気にするアメリカ人は多いように思います。(この発音問題は、語り出すと長くなってしまいますので、後日、改めて。)アクセントのことで嫌な思いをした経験があるという移民はおそらく少なくなく、出身地を尋ねることが「発音からアメリカ人ではないとわかりましたよ」というメッセージに変換され、それが過去の経験と連動し、嫌な気持ちになってしまう人もいるようなのです。とはいえ、全ての人が嫌な気持ちになるわけでもありません。つまり出身地は地雷の1つ。必ずしもタブーが潜んでいるわけではないものの、意図せぬタブーが潜んでいる可能性があるのです。

出身地は地雷になることがあるため、「(会社では)出身地については尋ねない方が安全だよ」と言う人事部勤務の友人もいます。彼女の会社は、いろいろな国出身の高度な技術を持つ従業員もいるところで、企業文化の1つにD&Iも掲げられた企業です。そんなダイバーシティを自慢する企業で、出身地が地雷と考えられるいることに違和感があります。それは出身地というのはダイバーシティの尺度の1つだと思うからです。

”ダイバーシティの尺度の1つが地雷になっている”、
その状態は果たしてダイバーシティを実現した状態なのでしょうか?

”ダイバーシティ”は、単なる数合わせだと考える所以がここにあります。本来、ダイバーシティのメリットは、バックグラウンドの違いから来る多角的な視点から、新たな気づきがあったり、問題が解決の切り口が見つかったりすることにあるかと思います。しかし、その多角的な視点のベースとなるものについて触れない方が安全となれば、議論が混乱する可能性があります。

地雷が潜んだダイバーシティがなぜ問題なのか?

出身地(国)が異なる人たちとチームを組んだ時に、同じチームの人から急に「あなたは時間を守りすぎて良くない」と批判されたことがあります。

これも相手が日本人ならば、クレーマーか、ちょっと関わってはいけない類の人ということになるかと思います。
しかし、その時の相手はケニア人でした。いろいろ議論する中で、また、アフリカについてよく知っている人の助言を聞いて、これはお互いの育った国の環境に強く影響を受けたという考えだということがわかりました。

当時の私は若かったこともあり、1日、2日の徹夜作業は大変とはいえ、それで病気になるようなことはなかったため、締切(時間)を優先させることができました。一方、彼女にとって最も優先すべきことは、健康(良い体調でいること)でした。ケニアに限らず、致命的な風土病がある地域の人は、”自分が感染している”前提で、疲れすぎたりすることで、発病しないように心がけた生活が重要だといいます。

このようなバックグラウンド情報があると、「1日、2日、遅れたくらいで何の問題が?」という彼女の発言に至った彼女の考えがわかります。そうすると、このケースでは例えば、彼女が数日遅れることを含んだスケジュールを組むことで問題が解決できます。

しかし、もし、「出身地は地雷かもしれない」と、彼女のバックグラウンドを”触れてはいけない領域”として対応したとしたら、私は「彼女はルーズな上に、ものすごい責任転嫁をしてくる、ちょっとヤバそうな人」というレッテルを貼っていたかもしれません。仮に私が彼女の上司であったとして、彼女をチームから排除するのが難しい状況であれば、重要な仕事を回さない等の対応を行ったかもしれません。自分の本来の能力や、情熱を発揮する場を、誤解から奪われかねないという点では、戦力外とされた従業員にとっても幸せな状態ではないといえます。さらに、従業員を雇いながら、その従業員を戦力外扱いにすることは、支払った給与だけでなく、組織の士気を落とすことにもなり、組織にとって、大きな損失です。

このような状況は、ダイバーシティではあるものの、インクルージョンではない職場環境の典型であり、残念ながら、このような職場環境は”アメリカあるある”の1つかもしれません。だからこそ、企業文化として、ダイバーシティよりも、インクルージョンやD&Iが重視されるようになったのだと思います。

”意図的なダイバーシティ”とダイバーシティの本来のあり方

本来”結果”であるべきダイバーシティ

前章で散々ダイバーシティはダメだ的な話を展開してきましたので、ダイバーシティの名誉のために申し上げますと、ダイバーシティというコンセプト自体が悪いわけではありません。問題があるのは、アメリカでの、特にリベラル・エリートと呼ばれる人たちの間での使われ方。本来、ダイバーシティは、公平な競争、公平な審査等の結果として、多様性のある人々が集まっていることに意味があります。”結果のタイバーシティ”は、その組織が”入口”の段階で、人種や性別を理由とした、不当な排除が行われることがなかったことの表れだからです。

”意図的なダイバーシティ”が生む、根強い差別

一方、ハーバード大学をはじめいくつかの大学が主張するアファーマティブ・アクションによるダイバーシティは、”意図的なダイバーシティ”です。ハーバード大学も、「入試プロセスでの人種考慮を続けられなくなれば、現在のダイバーシティを保てなくなる」と明言しています。そのためこれを受け、ハーバード大学側に立つ学生やジャーナリストらは、「大学のダイバーシティを守れ!」と、叫んでいるわけですが・・・。

現在のアジア系受験生が不利になる入試制度(アファーマティブ・アクション)を中止すると、大学のダイバーシティは本当に損なわれてしまうのでしょうか?


一説によると、ハーバード大学が行う入学プロセスでの人種考慮を止めることによって、増えるアジア系学生の割合は2%くらいだと言います。そして、重要なのは、アファーマティブ・アクションの有無に関わらず、入学プロセスをパスできた黒人、ヒスパニック系受験生のことも考慮すべきだということです。

前回のコラムでもシェアさせていただいたことですが、黒人、ヒスパニック系の学生でも学業成績がオールAで表彰されるお子さんはたくさんいます。同じようにアファーマティブ・アクションとは関係なく、自らの実力でハーバード大学に入学した学生もたくさんいると思います。しかし、この制度があるがために、自力で入学した黒人、ヒスパニックの学生たちの努力が不当な評価ーー特定の人種だったから合格できたような誤解ーーを受けてしまう懸念があります。

この懸念は単なる私の杞憂というわけではありません。私がアジア系受験生差別問題を初めて知った時に、最初に浮かんだのは、女性医師を敬遠する患者がいたということです。「過去のアファーマティブ・アクションにより、女子学生の方が医師になりやすい環境があった。だから、女性医師は男性医師よりも、劣っている可能性がある」というのです。これが本当かどうか、軽くネットサーチしただけではわかりませんでしたが、アメリカは”ダイバーシティ”を強調する社会ですから、女性医師を増やそうという動きがあっても不思議ではありません。

問題は、このようなことが行われたかどうかよりも、事実として、そのように信じ込んでいる人がいるということです。そして、仮に、女性が医師になりやすい配慮があったとしても、アファーマティブ・アクションなしに医師になりえた女性医師も必ずいますが、配慮を受けた女性医師が誰なのか?というのは、患者は知ることができない事実かと思います。すると、実力で医師になれた女性を含めたステレオタイプとして、「女性医師は男性医師よりも実力が劣る」と信じ込む人が出てきてしまうのです。このような環境は、女性医師にとって幸せなことでしょうか。同じようなことは、ハーバード大学の黒人、ヒスパニック学生に起こりうることです。

子どもの能力を引き出す支援、潰す支援

保護者の経済力と、子どもの学力には相関関係があると言われています。一方で、貧困問題に人種が関係するという研究もあるようです。とはいえ、私は「だから、入試プロセスで人種を考慮すべき」という意見に対しては違うのではないかと思います。子どもの貧困問題には、犯罪や薬物使用等、養育環境の問題も絡んできますから、個々の子どもの努力だけでは、どうにもならないということは承知していますし、”負の連鎖”から子どもたちを抜け出せるようなサポートは絶対必要だと思います。しかし、その配慮は、大学入学プロセスではないのでは?と思います。

前回のコラムでアジア系受験者の学業成績や、課外活動での成績が良い理由を、アジアの教育の影響を受けた保護者による家庭教育にあると述べました。特に、基礎的な学力、運動能力を身につける小学校時代が鍵になっているように思います。別のコラムでシェアさせていただいているように、日本で教育を受けた私の視点からは、アメリカの小学校教育はかなり緩い(生ぬるい)と感じてしまうものでした。それだけに、小学生の基礎学力や基礎的な運動能力が身につくかどうかは、かなり各家庭次第になっているように思います。貧困や薬物問題等を抱えた家庭では、子どもの教育をサポートするのは、かなり厳しい状態でしょうから、子どもたちを”負の連鎖”から連れ出すための施策は、この小学生時代に行うべきではないでしょうか。

成績が少々足りなくても入学させてあげる・・・のではなく、入学ができるレベルまで成績を伸ばしてあげることこそが、本来の”支援(配慮)”のあり方ではないかと思います。適切な家庭教育が難しい小学生を対象に、学習のサポートや課外活動に参加する機会を提供していくことで、結果的に、大学への進学者が増え、大学のダイバーシティも自然と実現することができるでしょう。

国際協力では、”魚を提供のではなく、魚の釣り方のメソッドを提供することが真の支援”と言われています。大学の入学問題についても、同じことが言えると思います。何も全ての子どもが勉強できるようになる必要はないと思うのですが、ハーバード大学に入学を希望するくらいですから、本人が学業が好きだったり、学業によって得た卒業証書を使って良い仕事を得たいと考えていたりするのではないでしょうか。だとすれば、むやみにハードルを下げるのではなく、ハードルの越え方を教えるべきです。その方が本当の意味での自己肯定感を高めることができるというメリットも加わります。

”本来のダイバーシティ”よりも”意図的なダイバーシティ”が重視される理由

                以上。
真面目な話、タイトルに対する答えは、上記のイラスト以上のものはないかと思います。

いやいや、おいおい、さすがにさ・・・と思う方もいらっしゃる・・・というよりも、そう思う方がほとんどだと思いますが、私のこの答えはおそらく間違っていないと思います。それは、日米で根本的な考え方の違いのようなものが存在するからです。

例えば、低予算で栄養バランスのとれた食事、特に子どもに野菜を食べさせたい場合にはどうしますか?10秒ほど考えてみてください。
栄養価が高く安い食材を中心にメニューを組んだり、カサ増し食材を活用することで、栄養と費用と、満腹感のバランスを整えたり・・・と考えた方はいらっしゃいませんか?

アメリカの学校のカフェテリア(ランチや朝食を提供)も同じ問題を抱えていました。そして、その解決策としたのは、”材料にトマトを使っているケチャップやピザソースも野菜に含める”という基準を設けたことです。

念のため、全てのアメリカ人がこの解決策で良いと考えているわけではありません。リベラルメディアであっても、この学校給食問題を批判する論調のところはあります。
同様に、現在のアメリカの”ダイバーシティ”のあり方に問題意識を持っている人はいますし(Eight Reasons Why We Need To Focus On Inclusion Rather Than Diversity)、問題意識を持っているからこそ、最初にご紹介した、”ダイバーシティから、インクルージョンやD&Iへ企業のトレンドが変わった”という経緯があります。

にもかかわらず、卒業生が社会をリードする企業の幹部候補生と言われる最高学府で、ケチャップを野菜とするような解決策で良いのでしょうか。解決が容易ではないと考えられている問題だからこそ、全米、そして、世界各国からの優秀な人材が集まっているであろうこれらの大学で取り組む意義があるのではないかと思います。

最高裁判決の行方は?

今回の最高裁判決は、来年の春から夏ごろに出されるだろうとされいます。そして、その判決で、大学入試プロセスにおけるアファーマティブ・アクションは中止されると見られています。

最初の章で紹介した、オーボエ奏者を例えに出した、ハーバード大学側の学生を選ぶ権利についての主張に対して、最高裁のジョン・ロバーツ判事は次のような返しをしています。

ハーバード大学の弁護を担当したセス・ワックスマン弁護士:
ハーバード・ラドクリフ管弦楽団がオーボエ奏者を必要としているとしに、オーボエ奏者が採用されやすいのと同じように、一部の優秀な志願者にとって、人種は決定要因になり得る。

最高裁のジョン・ロバーツ判事:
「我々は、オーボエ奏者をめぐって南北戦争で戦ったわけではない。人種差別をなくすために戦ったのだ。だから、これ(裁判)は重大な関心事なのだ。
あなたはこれ(入学プロセスでの人種配慮)が視点の多様性をもたらすというのなら、肌の色だけで信頼(クレジット)を与えるというのは、ステレオタイプに基づくものなのかどうか、あなたがそれを立証することが重要だ」。

そもそもこれまでの裁判も、アファーマティブ・アクションを積極的に認めたものではありませんでした。特定の人種を優遇する結果、人種が理由で入学できない学生がいるということは、裁判所も認めた事実でした。だからこそ、導入するにあたっての程度や、期限について、どのくらいだったら妥当と言えるのか?という部分にまで言及されてきたのだと思います。
そもそも差別を立証するのは、なかなか困難です。それも”人格評価”の中で行われていることですので、個別のケースとして戦うのであれば、例えば・・・、

「学業も課外活動での成績も素晴らしいのは、こちらも理解していますが、あなたはとにかく不誠実で、リーダーシップも弱いので・・・。そう、そもそもこんな訴えを起こすなんて、他の人種への配慮が足りない証拠です。つまり、あなたは偏見の塊であり、不親切な人物。それが合格できなかった理由です」。

なんて言われてしまったら、これ以上は、闘えません。

ハーバード大学のワックスマン弁護士は、ひたすら「地裁で、証拠不十分だと言ってた」を繰り返していましたが、”ダイバーシティの必要性”をやたら強調し始めたところを見ると、差別があったことは認めざるを得ない状態にあるという自覚があったからではないでしょうか。極左メディアも「(次に出されるだろう裁判所判決によって)大学のダイバーシティが損なわれる」とか「保守派多数の議会がまた、過去の最高裁判決をひっくり返すような横暴を働くのでは?」等々の論調の記事を出していますから、”アジア系差別があった”ということ自体は、否定が苦しくなっているのだと思います。

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