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足助のおばさんと教育 38

教育実習と赤旗

大学が教員養成大学だったので、教育実習には2度行きました。3年生の後期に4週間小学校と、4年生の前期に2週間中学校へ。中学校にはまだ弟が在籍しており、まさか受け持ちのクラスになるとは思ってませんでしたが、国語科実習生2名のうち一人は弟のクラスに配属されました。弟と私は顔立ちがよく似ているので、苗字ももちろん同じでしたから、私たちが姉弟であることは一目瞭然でした。1度、その私じゃない方の実習生が公開授業をするのを見に行きましたが、弟は見るからにふてくされてました。
まあ、それは大したことではなかったのですが、大変だったのは小学校の方です。
その頃すでに、共産党大学支部の執行部だった私は、「4週間赤旗が読めない」と言うのは非常に憂えたる事態でした。他の同志がみな同じ行動をとったわけではないですが、私は実習の間実家へ赤旗を配達してくれるよう手続きをして、実習に挑みました。
それまでは、大学にあるロッカーに配達してもらって、大学へ行ってから赤旗を読んでいたわけですが、早朝に一般紙より早く届く赤旗は朝のエネルギーをもらうようで、非常に目覚めもよく、実習も充実した気持ちで臨むことができました。そして、あの事件が起きたのです。
夕張炭鉱の落盤で数百人の死者が出た事件。今検索をかけて調べたのですが、落盤事故が多すぎて該当する記事が見つかりませんでした。たぶん日曜の朝刊だったと思います。そのあと実習へ行った覚えがありませんので。赤旗におどった大見出し「また仲間が殺された」。記事を読みながら私はぽろぽろと涙を流していました。この日ほど赤旗を自宅配達にしておいてよかったと思ったことはありません。
朝赤旗が読める心地よさに、私は実習が終わっても自宅配達を続けてもらいました。母は猛反対でしたが、父は労働組合でそれなりの活動をしていたので、さほど反対された覚えがありません。
その後、教員採用試験に落ちてからは、母が断固として許してくれませんでした。しかし、4年生になって大学へ行く日も減ってしまい、毎日赤旗を読むにはどうしたらよいか悩んだ挙句、当時の議員だった村瀬志げ子さんに相談に行きました。そこで近くの同志の家を紹介してもらって、そこに届けてもらうことになりました。
今、パソコンを立ち上げて、その日の赤旗をネットで読み、翌日配達される新聞で改めて記事を見るという日々が続いてます。なんとかもとのように赤旗がその日のうちに読めるようになりたいです。(2008年8月5日 記)

(元ブログ 教育実習と赤旗: Here Come the 足助のおばさん (asukenoobasann.com)

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