見出し画像

「母性」を読んで抱えたエグい胸焼けをやっと解消できた

少し前に、湊かなえの『母性』を読了した。書いてなかったのは、面白かったのはさて置いても、只々普通に嫌な気持ちになったから。

「愛能う限り娘を大切に育ててきた」女と、「その愛で壊された」という娘のすれ違いが、それぞれの手記を読み進める形で明らかになっていく。

母親の愛を一身に受けて育った女。母親が望む立ち振る舞いをし、母親の喜ぶ姿を見るためだけに努力する。母親と同じものに感動し、同じ感性を持っていることを無常の喜びとする。彼女にとって母親は信仰の対象で、当然娘にも、自分と同じような生き方をして欲しいと願っている。信仰の対象と自身を同一化することに全力を注ぐのであれば、そんな自分の生き方を娘に強要するというのは、ある種神降ろしの儀式のようにも思えた。

愛していると信じきっている女と、愛されていないと疑う娘の対比が悲しい。どちらにも言えることだが、受け手が抱いた感情が全てなのだ。最後まで届かないまま終わってしまうのが、救いがなくてキツイ(最後の章をどう読むかで解釈は変わると思うけど)。

さて、僕はこの女の心情を読み進めるのが大変に苦痛であった。特定の誰かやその人にもらった特性を信仰の対象として、それのみを生きる目的とする姿が、自分と大変に似通っていたからだ。こいつとは違うと、言い聞かせるように読み進めた。誰かにこの生き方を強要しているわけではない、自分は個人的にやっているのだと、軽蔑するように努めて飲み下した。当然、引くほど胸焼けした。

ただ、自分がこの状態にあることが、周囲の皆様方の不幸せに繋がる可能性があることに気付かされた。多大な心配をかけ続け、それでも尚この生き方は正しいものだと主張を続け、掻きむしった頭から滲み出てくる緑色の何かを書き散らし続ける。これら一連の過程の末に心乱される人がいるということは、「自分が勝手にやっている」では済まない話なのだろう。

変わらず、自分の特性は変えたくないし、想い続けたい。しかし、誰かを悲しませるやり方ではいけない。自分の信条を、他者の心の乱れを誘引する邪教に落とし込むようなことをしてはいけない。

人は変わらないという言葉に自分を当てはめようとしていた。そうしなければ、その理由に納得ができなかったから。確かに人は変わらない、仕方ないなと思おうとしていた。それではダメだ。望まれない形で固着したと感じる軸であるならば、その貫き方は誰かの心に悲しみを産まないものに変えていくべきだ。すぐには出来なくても、人は変われるのだから。

その人は化け物の事を良いと思ったわけではない。そう思いたくて、後天的にそうなったと書いた。では、今自分を思ってくれてる人たちに対してはどうなのかという話。身を案じてくれる人がいるのに、そんな自分を化け物と定義づけるのもまた、等しく失礼なことではないか?

今思い出した。部長を務めた軽音楽サークルの卒業ライブで、僕は「自分で自分を部長だと言ってもそうはなれなかった。所属する部員の皆んなが自分を部長だと認めてくれたからそうあれた」と話した。人間は、自分の軸だけでは存在し得ない。自分を価値のある人間だと定義づけてくれる大親友が周りにいる。だったら、僕は人間なんだろう。

そもそもが、良いと思ったものを言語化するために始めたことではないか?既に当初の自分の言葉を違えてしまっているではないか。であるならば、もう一度変えていこう。人は変わらない生き物だと言われたことに意を唱えよう。なぜそんな諦観に囚われて生きねばならんのだ。日々新しい感情に触れ、新しい本を読み、新しい音楽に触れ、それらを装備した最強の自分を作るのだ。カスタムロボみたいな話か。違うか。


マジで微塵も仕事せずに書いた。もらった感情は、鮮度が落ちないうちに保存するのだ。お前の周りに居る大親友たちが、身を案じてくれているらしいぞ。お前が化け物なのだとしたら、そんなこと起こらない気がするな。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?