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ワークショップ第16回『怒りについて考える』【哲学部】[20211101-1114]

皆様こんにちは。ジェイラボ哲学部部長のコバです。

今回の記事は、哲学部担当のジェイラボWSで行なった「怒りについて考える」について共有したいと思います。

それでは早速ログに参りましょう。

1日目

コバ 
おはようございます。
文章は夜に投稿致します。
よろしくお願いします。

2日目

コバ
家に帰ったらバタンキューで、朝になってしまいました。。。すいません。。。
それでは、哲学部WSを始めていきたいと思います。
今回の哲学部WSのテーマは「怒りについて考える」です。
「怒り」と言えば、喜怒哀楽の「怒」ですが、私は生まれてこのかた28年、この「怒り」という感情の正体が分かっていません。今回のWSを通して、この「怒り」についてとことん皆さんと一緒に考えていきたいと思っています。
皆さんはどんな時に怒りを感じますか?
日々生活していると「この人はなんでこんなことで怒るんだ?」という場面もあれば、「なんでこの人はこれについて怒らないんだ?」といった場面もあるかと思います。
また、「俺は怒っているんじゃない、叱っているんだ!」というセリフもよく聞きます。
「怒り」は私たちの生活とは切っても切れない関係にあると思います。
そして喜怒哀楽の中でも、もしかしたら一番激しい感情であり、かつ人によってこの「怒り」を感じる場面は様々で、一番複雑な感情なのではないかと私は思っています。
そんな「怒り」について、私はとても興味があります。
なので、この2週間で掘れるところまで掘ってみたいと思います。
それでは皆様、よろしくどーぞ!
あなたが日々の生活の中で、怒りを感じる頻度を教えてください

:1:
:1: よく感じる    5
@ほうむたろう, @蜆一朗, @Takuma Kogawa, @シト, @野澤
:2:
:2: たまに感じる    6
@Hiroto, @Bungeee, @Yujin Yonehara, @Tsubo, @マッキー, @バックれ
:3:
:3: あまり感じない    5
@コバ, @ていりふびに, @いんげん侍, @いいだ, @Tsubo
:4:
:4: ほとんど感じない    6
@イヤープラグさざなみ, @西住, @Shun, @ほうむたろう, @にしむらもとい, @けろたん ver.渋柿
コバ 
上記アンケートとなります。
数値を測るのが目的の場ではないので、頻度は体感的なもので大丈夫です。
また、自分が「怒りを感じる」頻度なので、実際にそれを表出させるかどうか(実際に他者に怒ったりすること)は関係ありません。あくまで「感じる」頻度です。

3日目

コバ
皆さん、アンケートお答えいただきありがとうございます。
私は「あまり感じない」を押しましたが、二十歳くらいの時は怒ってばかりの人間だったと記憶しています。
今は日常生活で怒りを感じることは頻度としては少ないです。
「怒り」という感情に対して、あなたはどのような評価をしていますか?
:1:
:1: ポジティブな評価    1
@Takuma Kogawa
:2:
:2: どちらかというとポジティブな評価    3
@コバ, @蜆一朗, @にしむらもとい
:3:
:3: どちらでもない    3
@Yujin Yonehara, @Tsubo, @ほうむたろう
:4:
:4: どちらかというとネガティブな評価    11
@Hiroto, @ていりふびに, @YY 12, @イヤープラグさざなみ, @マッキー, @Bungeee, @Shun, @野澤, @シト, @いいだ, @バックれ
:5:
:5: ネガティブな評価
コバ
上記、2つ目のアンケートです。
「怒り」という感情そのものについての、皆さんの評価を教えてください。
その他、怒りについて何か思いついたことや、情報、ご意見あれば自由にお書きください。
Hiroto
私個人の感覚では,「怒り」は主に行為に対して発動するような気がします.それに対して個人に対しては「嫌い」が発動することが多いです.
「嫌い」を発動した個人とは距離をとってしまうので,必然的に「怒り」は個人としては好意を持っている相手に発動することが多いです.
コバ 
Hiroto君のように他者に対しての「怒り」と「嫌い」を分けて考えられるのは、理性的であると思います。
「嫌い」な人に対してずっと怒っている人、いますよね。。。
嫌いな人と距離を取れればいいですが、嫌いな人とも社会生活を長く共にしなければならない場面は往々にして存在するので、そんな時に「嫌い」と「怒り」が混ざってしまうと、人間関係の崩壊のスタートなのかなとも思います。
コバ
皆さん、アンケートご回答ありがとうございます。
アンケート①、②の回答通り、私のスタンスとしては「怒り」は日常ではあまり感じないものの、怒りという感情そのものについては、どちらかというとポジティブな評価をしています。
というのも、もちろん他者に対する理不尽な怒りの発散(怒鳴ること等)や、先日の京王線の事件のような他者に危害を加える行為のトリガーとしての怒りは、もちろん私は否定の立場です。
しかし間違った事に対して「それは違うんじゃないか」と、正当な怒りを感じることや、凶悪事件のニュースを見て「許せないな」と、怒りを感じたりすることに対しては、私は肯定の立場です。
また他人に対しての怒りだけではなく、自分に対する怒り、つまり自分に対して「何やってるんだ!しっかりしろ!」と、時には不甲斐ない自分を鼓舞する怒り、というのも必要だと私は思っています。
アンガーマネジメントという言葉も昨今耳にするようになりましたが、二十歳くらいの何かにつけて「怒り」を感じていた自分には確かに問題はあったと思いますが、あの頃のような「できない自分に対する怒り」を今はあまり感じないので「これでいいのか」と、思い悩む時もあります。怒ることが減ってしまった自分に違和感を感じたり、悩むことはアンガーマネジメントの範疇を超えてしまっているとは思いますが。
コバ
また、「怒り」という感情の特性の一つとして「その他の感情よりも、他者に与える影響が強い」ということが挙げられるかと思います。
喜怒哀楽、この4つの感情の中で他者に向けられた際に、他者に大きな影響を与えるのは、明らかに「怒り」だと思います。
正確には、怒りそのものが他者に大きな影響を与えるというよりは、「怒り」は「暴力」に直結しやすく、他者に「暴力」は大きな影響(被害)を与えます。
やはりこの「暴力」に直結しているという点も、他の3つの感情と比べて「怒り」という感情が異質な点でもあると思います。
また、「怒鳴る」という行為も「言葉の暴力」ですね。
日常、他人が怒っている姿を見て、あなたがその「怒り」について共感できる頻度を教えてください
:1:
:1: 共感できることがほとんどだ
:2:
:2: 共感できることはそれなりの頻度で、ある    3
@YY 12, @いいだ, @マッキー
:3:
:3: 共感できることはたまにある    5
@ほうむたろう, @Takuma Kogawa, @Bungeee, @野澤, @シト
:4:
:4: 共感できることはあまりない    5
@コバ, @Hiroto, @Yujin Yonehara, @ていりふびに, @バックれ
:5:
:5: 共感できることはほとんどない    4
@西住, @けろたん ver.渋柿, @いんげん侍, @にしむらもとい    
コバ
上記3つ目のアンケートです。その他思いついた事やアンケートの答えの補足等あれば、ご自由にお書きください。
コバ
SFの世界になってしまいますが、喜怒哀楽をそれぞれパターンA ,B ,C,Dという名前に変えて、アップルウォッチみたいなもので各自が自分の感情をタイムリーに視認できる世界って、どうなんでしょうね。
「パターンAが、56%!50%を超えたので、15分間ニコチンを摂取します!」なんて会話が繰り広げられるんでしょうね。これがアンガーマネジメントの行き着く先なのか。。。?

4日目

YY 12
「怒り」というのは、とにかく自分に危害が加わったときに起こるものだと思います。
自分の身体や自分が予想していた未来に悪影響を及ぼされた時などが良い具体例でしょうか。
怒りのイメージ(評価)についてですが、私は「どちらかというとネガティブ」に投票しました。
「怒り」という感情そのものというより、その怒っている/怒られている状況からの連想が強いですが、七つの大罪のうちの一つ(憤怒)にもあるように、一般的にも良くないものという印象があると思います。
また、アンガーマネジメントの有名な方法として「6秒(あるいは3秒)ルール」があるように、怒りというのは突発的かつ瞬間的な性質を持っている気がします。
ここからは「怒り」について考えるうえで出てきた疑問なのですが、「キレる」と「怒り」の違いって何でしょうか?
僕はしばしば所長に「キレキャラ」イジりをされて、正直今までもなんとなく自分をそう思う節があったので「キレキャラ」であることには納得なのですが、「怒りキャラ」だとは感じません。
違いはないと言われればそれまでですが、個人的には違うものであるような気がします。
「キレる」の方が、なんというかより瞬間的で何らかの行為にまで及んでしまっているという感じでしょうか。
(ちなみに僕は、気を許した人たちの前でそのような一面があっても、基本的には礼儀正しく笑顔が絶えない好青年です(?))
コバ
<<「怒り」というのは、とにかく自分に危害が加わったときに起こるものだと思います。
私は自分に直接危害が加わっていなくても、凶悪な犯罪のニュースを見て怒りを感じることがあります。
もちろん、被害者は私に利害関係は基本的にはありません。
しかし、自分の認識の中にその犯罪行為が情報として入ってくることで、私の怒りは発生しているので、自分に対してその情報がなんらかの影響を与え、怒りが発生しているということは確かだと思います。
<<「キレる」と「怒り」の違いって何でしょうか?
「キレる」というのは「怒り」の表出の仕方の一種かと思います。
根本の感情は「怒り」で、その表出の仕方として「キレる」や「怒鳴る」があるんだと思います。
イヤープラグさざなみ
自分が怒っているときに、そのことが周りに気づかれないことは考えられるけど、「キレる」の方は外から見える何らかのアクションを伴うので、誰かがキレたら周りの人は気づく。あと、「キレマネジメント」は存在しないと思います。アンガーマネジメントが成立するのは、自分が怒りの感情を持ちながらもそれを自覚し得ることが前提とされていますが、「キレ」の方は、それに気づくのがやっちゃった後だからです。反射的なものです。
ていりふびに
身近な人に「怒り」を感じることはほとんどありませんが、ニュースなどで悲惨な事件を目にすると「怒り」を感じます。この場合、不快感が伴うので「怒り」はポジティブだと思えません。
また、自分の不甲斐なさに「怒り」を感じることもありますが、僕の経験だと「怒り」によって努力するのは一時的なもので長続きしません。「怒り」がきっかけになるという意味ではポジティブかもしれませんが、「怒り」だけでは継続しないうえに短絡的な行動に繋がりやすいのでどちらかといえばネガティブなイメージです。
ちなみに卓球をしているとネットインすることがあって、人によってはネットインされると「怒り」を表にだします。
そういう人はプレーが雑になるので楽に勝てることも多いんですが、あまり気持ちのいいものではないですね...
コバ
確かに、自分に対する怒りは一時的には強烈なエネルギーを生み出すことがありますが、それがどれくらいの期間続くか、他者にどういった影響を与えるか等、コントロールがかなり難しいという点は問題だと思います。
しかし、自分のコントロール下を越えるからこそ、強烈なエネルギーであるとも言え、そこに価値があるとも私は思っています。
私はテニスをしていましたが、確かにそういう人いますよね笑
ネットインで怒るのは、それこそ共感できなかったです笑
マッキー
僕は怒りを感じるとき、それを理性で管理し、素早く処理していく心の振る舞いも同時に感じます。うまく社会で共生していくために自分なりに体得した機能なのだろうと思います。怒りを感じている状況をできるだけ客観視し、時にはその感情にラベリングを施し、一般化の海に沈めていく、こうしたプロセスで自分の心を守ってきた気がします。ナイーブな奴だなと思います笑
でもそうしたプロセスでもどうしようもできない感情というのもこれまで何回か経験してきました。どんなに分解洗浄しようとしても心の奥にじっとりとこびりついて離れない、むしろ染み込んで心と一体化していくような、そんな感情に覆われていた時もありました。
そうした感情はラベリングが難しいんですよね。絶望とつけても怒りとつけてもどちらでも成立します。おそらく静的な面と動的な面を内在し、後者が顔を出すときはあほみたいに生きる原動力を与えてくれたこともありました。怒りとは生きるということとも通じている気がします。
“怒り”と一口にいってもいろいろあるかと思いますが、僕は今回↑こうした “怒り”にも目を向けてみたいなと思います。
コバ
私はアンガーマネジメントには詳しくありませんが、世間的には「怒りは抑えるもの」という風潮なのでしょうね。
私も他人に対する怒りは、社会生活を営む上である程度のコントロールは必要だと思いますが、「怒り」が人生を強引にでも前に進める力を与えてくれた経験は確かにあるので、怒りをただの悪者として扱う風潮はあまり好きではありません。

5日目

コバ
今回は「他人の怒り」についてのアンケートでした。
私のアンケートの答えは :4:共感できることはあまりない です。
というのも、喜び、楽しい、哀しい、そういう感情であれば「まぁ、この人はこれが楽しいんだろうな〜」とか、「確かに、今の状況は悲しいよね」と、共感できる場面は「怒り」という感情と比べると明らかに多いです。
しかし「怒り」となると、怒っている人を見ても「なんでこの人はこんな事で怒っているんだ?」「全然、怒鳴るようなことではないだろ」「あなた怒ってるけど、それってあなたの責任も多分にあるよね?」と、共感できることはあまりありません。
ちなみに、二十歳頃の怒りをよく感じていた頃の私も、あまり他人の怒りには共感できませんでした。
なので他人の怒りにあまり共感できないという私の特性は、今も昔も、ほとんど変わっていないと記憶しています。
あなたは「怒り」という感情が収まっていない状況で、怒りの対象を「許す」ことができますか?
:1:
:1: ほぼできる    4
@けろたん ver.渋柿, @Tsubo, @シト, @西住
:2:
:2: それなりにできる    1
@いいだ
:3:
:3: できることもある    5
@コバ, @YY 12, @野澤, @Yujin Yonehara, @ていりふびに
:4:
:4: あまりできない    1
@マッキー
:5:
:5: ほとんどできない    4
@Hiroto, @蜆一朗, @Bungeee, @Takuma Kogawa
 
シト 
ちょっと違うと思いますが、少ししたらどうでもよくなる事が分かっているので、形式的に許すという行為をしています(面倒だから先生の言うとおりに仲直りしておこうという小学生時代の行為が、影響してそうだなと個人的に思っています。そのせいで少ししたらどうでもよくなってしまうようになったのかもしれません)。
コバ
感情の、時間の経過に伴って(時には大きく)変わっていくという点も注目すべき点であると思います。
許すという行為から始めて、その後に怒りの抑制が時間経過と共に行われる。
人間関係を円滑に進めるために、先に許してしまう、というのも手法の1つとしてはアリだと思います。
マッキー
「許す」という行為の意味付けですよね。僕が前述した心の動きは自身のストレスを軽減させるための“処理”であって「許す」とはまた違うような気がします。その“処理”行為というのは事象を客観視して、社会一般的な関係性の中で解釈可能なものとして意味付ける行為だと表現できるかもしれません。 “そういう考えの人もいるよね”とか“そういうバックグラウンドの人はそういう言動取るよね”とか、そうやって位置づけを整理することで、なんか少し気が晴れることってないですか。主観を極力排除しようとする意識が気を楽にする、ということはあると思います。一個人の僕(の主観)が相手あるいは相手の行為を「許し」ているわけではない、と。少なくとも“処理”においては。
ここまで考えて@Hiroto さんの、行為と個人を分ける考え方が一つキーポイントになってくる気がしてきました。個人としては嫌いだけど行為としては“許せる”という文脈においてはその“許す”は僕の中では“処理”に近い“許す”でいわば弱い“許す”と整理できるかもしれません。行為と行為を行う人格とを紐づけて、その人格自体も受け容れて“嫌わない”までいく“許す”が強い“許す”でしょうか。 そんなんむりっすけど
コバ
怒りを発生させている対象に対して、抽象化することで怒りは緩和されると、私も思います。
例えば「この人はこんな行為をしてきたけど、バックグラウンドとしてはこういう経緯があったんだ」と考えることで、怒りが緩和されることは私もあります。
Hiroto
私は割り切れない人間なので、許すというのは完璧に怒りの感情を解消することと同義になってしまいます。その意味で同時発生し得ないので⑤にしました。
しかし(ある行為への)怒りを保ったまま、対外的には「(その行為を)許しているように見える」状態もあるとは思います。
@マッキー さんのいう弱い"許す"よりもさらに弱い"許す"といえるでしょうか。私は私のこの状態をもはや"許す"とは呼称しませんが、周りから見れば完璧に許しているといってもいいと思います。私は私の内面的感情の動きを唯一認識できる存在なので"許す"認定を下しませんが、他人から見る私の感情はその表出と同義なので、許していると判断せざるを得ない、と。
もしこの状態も"許す"の勘定に入れるのなら、③「できることもある」くらいにはなるのかなと思います。
コバ
Hiroto君の「許す」が、「完璧に怒りが解消されている状態」であるならば、確かに、怒りの感情が残っていてはそもそも「許す」は成立し得ないですね。
「許す」にも“強弱“が存在するのは、面白い視点だと思います。
Bungeee
「許す」ってなにだろう、という話になると思います。私もHirotoさんと同じで、怒りの感情が落ち着いた後に、許せるかどうかの段階に進むので、怒りの感情が収まっていないままの「許す」という行為はちょっとイメージできませんでした。
「怒り」は、衝動的というか刹那的な感情のイメージです。許せないから怒っているとも言える気がしてきました。
コバ
「許す」の定義の話になってくる、というのは仰られる通りだと思います。
しかし「怒り」そのものについてのイメージはほぼ共有できている(ような気がする)のに、「許す」になるとこれだけ1人1人ズレが出てくるのは面白いなと思いました。
これは「怒り」が“感情“であり、「許す」は“行為“だからでしょうか。

7日目

コバ
今回は「許すこと」についてのアンケートでした。
私のアンケートの答えは :3: できることもある です。
このアンケートに答える際、「許す」の定義によってアンケートの答えも変わってくるはずです。
私の場合は、「許す」ことと感情としての「怒り」が収まっているかどうかは別です。
なぜなら、私にとって「許す」とは意思を伴った「行為」であり、「感情」とはまた別の次元の概念だからです。
とは言うものの、私も怒りが収まっていない状況で、その怒りの対象を許すことはなかなかできません。
「怒り」という感情が人に与える影響は、やはり大きいと感じます。
Takuma Kogawa 
昔は怒りに対してポジティブな印象はありませんでした。イジメなど嫌なことをされたときはやはり嫌ですし、周りの人たちも何もしてくれないだろうと思っていました(怒り+諦め)。今でもニュースや仕事において怒りや、なんでそんなことをしてくれるんだ?という気持ちをよく感じますが、自分なりに考えたり怒りの原因を解消しようとしたりすることをしています。怒り自体はマイナス要素が大きいですが、結果としてそれをきっかけに内的、外的なものを改善しようという意識は芽生えるため、自分にとっては怒りは総合的にはポジティブに考えています。
他人の怒りに対しては「まあわからんでもないな」という最低レベルの共感はすることがあります。怒りの表出度合いによって、共感の強さは変わってくると思われます。共感とは言いますが、怒りの原因やその解決について一緒に考えることはあっても単に同調することはありません。
何かの事象に対して怒りを覚えたとして、事象そのものに対しては許すことはなく、仕方なく受け入れたり諦めたりといったように処理する(自分の感情を伴わずにとりあえずそうしておく)ことが多いですかね。事象を起こした主体(個人、団体など)に対しては、行為の理由が納得できれば許す、納得できなければ許さない、と区別しています。たとえば、介護を苦にして親を殺害した容疑者に対しては、背景を考えれば殺害したくなる気持ちはわかる(だけど殺害そのものはよくない)から容疑者を許してもいいかな、と考えることもあります。ただし、誰かが悪意をもって僕に何かをしてきたら、許すことはないと思います笑
本筋ではないですが、アンガーマネジメントは怒りを主眼においているだけで、コミュニケーションのやり方について述べているイメージがあります。ストーカー行為を経て好きだと伝えても相手に何も響かないように、沸いてきた怒りの感情をそのままぶつけても受け入れられないから、相手に伝わるようにどのように加工して表出するのがよいかということであり、感情を抑えよといっているのではないと考えています。
コバ
Kogawaさんの仰られる、「納得」というのも重要なキーワードであると思いました。
また、事象と主体を切り分けて考える、というのも「怒り」とうまく付き合っていくためには重要であると思います。
そうなのですね。アンガーマネジメントについては詳しく調べもせず発言してしまっていました。ご指摘ありがとうございます。
Takuma Kogawa
いや、アンガーマネジメントについては僕も素人でして、ただのイメージを書き込んだだけです。混乱させて申し訳ございません。
コバ
いえいえ、私の読解力不足です。
これをきっかけに私もアンガーマネジメントについて調べてみようと思います。ご意見ありがとうございました。

8日目

イヤープラグさざなみ
司会を引き継ぎます。今日中には投稿します。
イヤープラグさざなみ
「怒り」に関しては生活の中で接する機会があまりないので、この話題を扱うことは私にとって少し難しいです。これまで
・怒りは使い方によっては大きな(正の)エネルギーとなりうる
・他人の怒りに共感することは難しい
・怒りは抑えるべきもの
・行為と行為の主体は分けられるか
といったような観点が挙げられました。
イヤープラグさざなみ
行為と行為の主体を分けることはできないと思います。例えば何らかの発言に対する怒りであっても、それを誰が発言したかによって我々の応答は異なるはずです。ニュースに対する怒りの例を見ても分かる通り、行為そのものではなく、その行為の背景も込みで私たちはその行為について判断を下しています。
イヤープラグさざなみ
みなさんが直近で誰かに対して怒った、あるいは怒られた経験について聞きたいです。その他関係のなさそうなことでもなんでも大丈夫です。

9日目

シト
ちょうど今日、バイト中に客に怒られました(これはキレられたという方がいいのかもしれないですが)。多分何か良くないことがあったのでしょう。いきなり「青果の責任者いねえのか」と聞いてきたので、嫌な感じーと思いながら「少々お待ちください。確認して参ります」と僕は言いました。すると「バカかてめえは。さっさとしろ」と言ってきました(このパターンは初めてだったので、ニヤケが止まりませんでしたが、マスクのおかげでバレずに済んだのはよかった)。いない事は知ってたのですが、ちょっとヤバい奴がいる事を一応報告しにバックヤードに行き、また客のところに戻りました。いない事を客に伝えると「アホかお前は。もやしねえのかよ。探してこい」と言ってきたので「少々お待ちください。確認して参ります」とまた言いました。在庫を青果に聞いたら無かったので、それを客に伝えると「お前みたいなクズがいるからねえんだよ。アホだなお前」と言われました。「どんだけもやしが好きなんだよ」と思いましたね。

イヤープラグさざなみ
相手を珍客認定して笑えてしまうことがすごいと思います。私だったら少々キツイ言葉を言われただけで涙目になってしまいそうです。
八つ当たりや憂さ晴らしは、その被害者に怒りの芽を植え付けることがあると思います。そうして周囲に怒りが感染していくことも考えられます。

10日目

YY 12
最近、怒られたことの記憶はあまりないです。
何かを言われたとしても、どちらかというと「アドバイスや注意」ぐらいのレベルで収まってます。
数年前の中学生・高校生をやっていた時でしたら、「怒られた」という表現を使っても差し支えないことは人並みに言われてきたはずなんですが、「歳を取ると人に怒られなくなる」というのは本当なんですかね。
(何年かしたらまた色々怒られるんでしょうが...)
怒るということに関してですが、マイナスなニュースなどでは、僕は「怒り」よりも「事件そのものへの悲哀、被害者への同情、どうしてそんなことが言えるのか(できるのか)加害者への疑問・呆れ」といった「悲しみ・呆れ・悔しさ」なんかを強く感じるタイプのような気がします。
何人かの方が「自分に対しての怒り」ということをおっしゃっていましたが、これに関しても、僕はどちらかというと(もちろん怒りを全く感じないわけではないですが)「悔しさや悲しさ」を感じて、その後に「じゃあどうするか」を考えます。
ただ、日常の些細な出来事(傘を地面と平行に持っているだとか、電車内で足を広げて座っているだとか、礼儀がないだとか)はいたって純粋に怒りを覚えます。
イヤープラグさざなみ
怒りのきっかけについて考えたいと思います。怒りの発生には、「当人の持つ理想や予定」と「現実」との衝突が伴っている気がします。頭の中に描かれた「こうあるべきだ」「こうであるはずだ」というイメージと実際にはそうなっていない現実を比較して、その違和感に対して我々は感情をぶつけます。それが怒りや悲しみ、悔しさだったりするのでしょう。
怒りのきっかけに関する考えや、怒りや悲しみ、悔しさなどの感情がどういう順番で生じるのか、また「怒り」の感情は取り立てて話題にするような特別なものなのか、それとも多くある感情のうちの一つに過ぎないのか、何か意見のある方はお願いします。新たな視点を加えることも大歓迎です。
ほうむたろう
私にとって怒りは喜怒哀楽の一つでしかない。喜怒哀楽のどれが善くどれが悪いとかの評価はないです。おそらく善し悪しの評価はその前後に伴う作為(不作為)に向けられると考えます。
感情は自分で選んでいる側面がある。と認めています。また、感情、情念が人を動かす力を持っているし、その力はそれなりに強いことも認めています。だからこそ、感情のフックを利用することを試みたり、自分の行動統制してみたりと日々実験しています。
感情を抱くこと自体をコントロールすることは、悟りを開いていない私には不可能だと思っています。ただ、巻き起こる感情とどのように向き合うかは選択できるし、ゆくゆくは自分の意思で自由に感情を取り出せるようになってみたい。これは役者の訓練みたいなものだと思っています。
感情が駆動しているとき世界からの何らかの入力があることについては概ね正しいと思っています。そのリアクションとして感情のどれかを選択している。感情は怒りとか喜びとか名前を付けてしまうと排他制御されたデジタル信号のように見えるが、感情の成分表もしくはスペクトル分析前の何かのような混然一体とした複雑なものととらえると、好きだけど嫌いとか、嬉しいけど悲しいとか理解できるような気がするし、1/3の純情な感情も笑わずに頷けるのかもしれない。(ちょっと意味がわからない)
また、怒りに任せて壁を殴ることも、喜びにあふれてテロ行為することも、正義感にかられてマスク警察ごっこすることも、賢者タイムを得たいが故の自慰行為も、感情が行動を駆動しているという意味では同じだと思います。
怒りよりも嬉しい楽しいといった感情を選択しているほうが、個人的には心地いい。いい年した同居の祖母(99)は毎日大声で悪態をついており、家内だけでなく近所迷惑なくらいの騒ぎようです。あのような人間にはならないと心がける次第であります。うるさい黙れとイライラしますが、これは怒りとは違うような気もします。
YY 12
「想定していた事態」と「現実で実際に起きた事態」との差で感情が発生するというのは同感ですが、「1つの感情」と「1つのシチュエーション」が一対一で対応してるのではなく、多様な感情がぐちゃぐちゃに湧き出るという捉え方が実態に即していると思います。
(そりゃそうって感じですが)
個人的に感情の中で「怒り」を特別視するということはないです。
性質が違い過ぎて、何かしらの評価軸を設置しないと比較できるものでもないと思いますが、少なくとも喜怒哀楽の4つでどれか一つを重要だと思うことはありません。
しかしながら、怒りが自己他者問わず様々な影響を及ぼすことは理解できますし、その意味で「怒り」を際立たせて見るのは納得できます。
「感情のコントロール」というのは「沸騰したお湯に手を突っ込んで何とも思わない」ぐらい難しいことだと思います。
熱いものは熱いし、悲しいことは悲しい。
ただ、その感情の発生・流れをコントロールすることは、ほうむたろうさんがおっしゃるような、何かしらの非日常的な訓練(修行と呼んだ方が適切かもしれない)によって可能だとも思います。
もっとも、だからといってそうなろうとは僕は(今のところ)思いません。
確かに「こんな時にこんな感情が出てくるのは面倒くさい」と思う時もありますし、将来的には合理性を考えて「最初から感情の蛇口をコントロールできる」ことを目指すのでしょうが、今の僕は「とりあえず感情の蛇口は開けておいて、出てきたものをどうするか」を目標にしています。

12日目

イヤープラグさざなみ
感情が白黒はっきりしたものではなくスペクトルであるのはその通りだと思います。自分の意思で自由に感情を取り出せるようになったとき、頭の中では何が起こっているのでしょうか。外界からの入力に対する出力として感情があるならば、それを自由にコントロールできるということは、実際にその時点で経験していない状況を脳内で再現できるということになると思います。脳内での再現は想像力によるものですが、積み重ねてきた人生経験が色濃く反映されるはずです。そうだとすると、想像よりも想起の方が近いのかもしれません。
感情の発生をコントロールできたとして、本来あったはずの自然な反応が完全に失われることはあるのでしょうか。感情のコントロールというのは、自然に発生した感情を自覚した後の操作手順のようなものだと思います。
イヤープラグさざなみ
怒りの特性として他者に与える影響が強く、その根拠として暴力につながるからという話がありました。しかし他の感情も他の人に影響を及ぼすことは大いにあります。怒り以外の、一見良い側面しか持ち合わせていないような感情にも他者への攻撃性が隠れているような気がします。ここで言う良いとは、被害者がいないと言う意味です。
怒りだけに注目せず、他の感情との比較や感情と身体の反応(笑う、泣くなど)の関係を考え直すことで、何か見つかるかもしれないと思いました。
イヤープラグさざなみ
身体に起こる変化と感情の発生の順番も一方向ではない。例えば楽しいから笑うのではなくて、笑うから楽しくなるなど。
怒る人は怒りたくて怒る対象を探していたのか。

13日目

コバ
それでは、怒りについて考えてきた哲学部WSもそろそろまとめに入っていきたいと思います。
喜怒哀楽の「怒り」を他の感情と分けて、注目すべき感情として意識している、という意見は少なかったように思います。
感情の中でも「怒り」について着目するというのは私の個人的なバイアスが多分にかかっているので、それはそうかとも思います。
そもそもの話になりますが、感情、喜怒哀楽、これらは言語です。
何か情報が自分自身に入ってきた際に、自分自身の反応の一つとして感情の変化が起こります。
その変化に私たちは名前を付け、その名前として喜怒哀楽も存在します。
しかし、私が唯一の存在であるとするならば、何か情報が自分自身に入ってきた際に、自分自身の反応が起こったとしても、それが自分自身であるということはその情報(以下情報Aとします)が入力される前後でも同一人物なので、その自分自身の存在の外界への表出の1つのカタチに名前を付け、他者との共通認識を可能としたものが、時に「怒り」と呼ばれたり、時には「喜び」と呼ばれたりするのだと思います。
そうであるならば、情報Aが入ってきた後に、私が怒っていたとしても、それは悲しみを伴う怒りであるかもしれないし、怒りながら、どこか喜びも感じているかもしれません。
正確な表現を突き詰めるならば、情報Aが入ってきた時の自分の感情は、「怒り」ではなく、「悲しみ10%、怒り80%、喜び10%の感情」と表現する方が真実には近いはずです。
しかし、感情の再現性というものを考えると、同じ感情、というのは存在しないはずです。
「悲しみ10%、怒り80%、喜び10%の感情」と表現したところで、昨年感じた「悲しみ10%、怒り80%、喜び10%の感情」と今年感じた「悲しみ10%、怒り80%、喜び10%の感情」は、どこか違うはずです。(それは時間の経過によるものなのか、環境の変化によるものなのか、ケースとしては様々です)(そもそも感情という概念に対して、%を付けるということ自体がナンセンスかとは思いますが、私の表現力では今回の文では%を使用しなければ上手く表現できませんでした。ご容赦ください)
であれば、その時々の状況に合わせて感情の名前を「感情β」とかの名前で表現した方が、「自分自身の存在の外界への表出の1つのカタチに名前を付け」という点では正しいと思えます。
しかし、これでは「他者との共通認識を可能としたもの」という他者との共通認識を可能としているという言語の機能が著しく損なわれていると言わざるをえません。
「怒り」は確かに言語的には感情の1つでしかなく、何か情報が自分自身に入ってきた際に、自分自身の反応が起こったとしてもそれは真実としてはそれに反応している「自分」がそこにいるだけで、その状態に対して時に「怒り」という言語を被せているだけであるならば、私の「怒り」に対する問題意識は、どこに向かっていたのでしょうか。
個別的な各個人の「行動」、あるいは私が「怒り」と呼んでいる、反応が起こっている際の各個人(自分含め)の心情、行動の変化について私は気になって、思考しているんだと感じました。

14日目

YY 12
「怒り」に限ったことではないですが、確かに、「怒り」は自分の中にある特定のタイプの感覚につけられた名前であって、私が「怒り」と呼んでいる感覚は、他人のそれとは異なるものであるとすると、「じゃあ〈怒り〉ってどういうものなんだ」というのは疑問に思いますね。
実際、「怒り」に関するアンケートでは、予想よりも回答がバラついていて、自分が思っている以上に「怒り」(や様々な感情)はボンヤリした概念だなと感じました。
哲学的ゾンビや独我論的な話になってしまいますが、相手がどんなに痛がってようと、顔を赤くして大暴れしていようと、結局は自分発信での理解だと思うと狭い世界ですね(ここらへんのテーマはまだあまり分かっていないので、あくまで直観的な感想ですが。)
コバ
さて、今回の哲学部WSはここまでとしましょう。
皆さんの考えていらっしゃる事が知れたり、意見交換ができ、とても良い経験となりました。
また、怒りについて実生活で意見交換をする機会が私は今まで無かったので、そういった意味でも皆さんと意見交換ができたのはとても貴重な経験となりました。
正直言うと私自身、怒りについて「気になっている」と言いながら、怒りについて深く思考することをどこか避けてきました。
というのも、「怒り」について思考しようとすると、痛くもない腹を探られる感じがすると言いますか、どこか不快な感じがしてしまいます。
怒りを感じるということは、人間として普通なことであるにも関わらず、そこに対して疑問を持ったり、思考したりする。
まさに健康体なのに、あれこれと検査をされている状態のようなもので、これが快適なはずがないですね笑
いずれにしても怒りを抑制する方法を考えたり、アンガーマネジメントについての情報交換ではなく、「怒りについて考える」という、どうにも役に立たなさそうなテーマのWSにお付き合いいただき、ありがとうございました。感謝致します。
それでは皆様、2週間お疲れ様でした。

以上、第16回WSのログでした。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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