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ジェイラボワークショップ第26回『人に何かを伝えるということ』【哲学部】[20220502-0508] #JLWS

J LAB Season4 Workshop、今年度哲学部の初回WSは「人に何かを伝えるということ」というテーマで行いました。

ジェイラボWSとは人に何かを伝える場です。
そのそもそもの「人に何かを伝える」という事をジェイラボメンバー皆で考えるということを今年度哲学部初回WSのテーマとしました。

今年度からのジェイラボWSの「物語を読むという体験を主催者側が準備する」という新しい取り組みを、今回のWSでは「私(コバ)による語り」という形で取り入れました。
「私による語り」の物語の部分に★印をつけておきましたので、★だけを読めば「私による語り」部分は読めるようになっています。

それでは早速ログに移ります。


■コバ

皆様こんにちは。哲学部部長のコバです。文章は今晩から投稿致します。よろしくどーぞ!

■コバ

みなさんこんばんは。GWいかがお過ごしでしょうか。ちなみに私は全て仕事です笑笑
なので、投稿時間は毎日この時間帯以降になると思います。
部活動も増え、WSの司会進行自体も久しぶりに感じます。今年度も哲学部WSを行えることを嬉しく思います。
現在WSはオリエンテーション期間ですが、哲学部はこの1週間を使って、そもそもWSとは「人に何かを伝える場である」というその、「人に何かを伝える」という事を皆さんと一緒に考えることで、これからの哲学部WSの導入としたいと思います。
また、今年度のWSの方針にある「物語性」は、「私コバの語り」という形で入れていきます。
それでは今年度も皆様どうぞよろしくお願い致します。

Day1 屁理屈大魔王

■コバ

それでは今年度第1回哲学部WSを始めたいと思います。
今回のWSのテーマは「人に何かを伝えるということ」です。
ここで言う「人」とは「他者」のことです。また、ここで言う「何か」というのは、「自分の思いや考えや意志」のことです。早速アンケートから行きたいと思います。
可能であればどんな風に「得意か、あるいは苦手か」まで教えていただけると嬉しいです。

他者に自分の思いや考えや意志を伝えることが
:1: 得意だ    1
@Hiroto
:2: どちらかというと得意だ    2
@Daiki, @ていりふびに
:3: どちらかというと苦手だ    4
@Yujin, @Takuma Kogawa, @イヤープラグさざなみ, @Shun
:4: 苦手だ    11
@コバ, @蜆一朗, @YY 12, @チクシュルーブ隕石, @Naokimen, @シト, @ゆーろっぷ, @イスツクエ, @chiffon cake, @あんまん, @Tsubo

■Tsubo

僕は「苦手」に投票しました.具体的にどんな「もの」を伝えるのが苦手かというと自分の中でも明確になってまして,「それを伝えると自分と相手の関係が変化してしまう」ような事項を伝えるのが特に苦手意識を持っています.例えば,バイトなどで進捗が全然でてないことを伝えたりとか(相手に怒られるなり失望されるなりしてしまう),自分が相手に思っている,相手の不満点とかを伝えたり(言わずもがな)です.確か,他の研究機関の共同研究を始めたときは半年間くらい連絡を絶っていた時もあります(笑)今は普通に学会発表をしたり毎月その研究機関に遊びに行ったりと進められています.あ,前付き合っていた彼女に不満点を伝えようとして連絡がしにくくなってしまい,結局別れてしまったこともありました.
あとは自分がやらかして落ち込んだ時も人になかなか顛末を話せないとかもありましたね.
議論の場とかならたくさん話せるのですが,なぜ「それを伝えると自分と相手の関係が変化してしまう」ことは伝えるのが苦手なのかは自分でも不思議に思っています.他人とぶつかったりする社会経験が未だ十分ではないと言われればそれまでなのですが.

★コバ

私は小さい頃から「人に何かを伝えるということ」が苦手でした。
恐らく一般的な人とは、考える切り口というか、考える「点」が違うのだと思います。普通の人はこだわって考えたりしない事を、小学生ゆえの純粋さで考えつくまま他者にぶつけていました。そして、ついたあだ名は「屁理屈大魔王」笑笑
当の私としては自分が屁理屈を言ってるという自覚は無く、「屁理屈!」と言われるたびに「屁理屈ってそもそもなんやねん!」と思っていました。(実際にそれを口に出すと「それが屁理屈!」という答えが返ってくるという、この一連のやり取りを何度もするうちに、「屁理屈ってそもそもなんやねん!」と口に出すことは次第に無くなりました笑)ちなみに屁理屈とは「実生活を送るうえでは考えても役に立たない理屈」と定義できると思います。また、役に立つの定義は「それを用いる対象に対して、プラスの影響を与える要素とマイナスの影響を与える要素を天秤にかけた際、プラスの方向に天秤が傾く時、それはそれを用いる対象に対して役に立つと言える」と私は考えます。一応私がどんな感じの小学生だったのか具体例を挙げておくと、絵が上手いとされる同級生に対して「何をもって絵が(上手い)とされるのか」という問答を仕掛ける、といった感じの小学生でした。
もちろんこんな態度が学校社会でウケるはずもなく、次第に私も一般的に「屁理屈」とされるような考えは、表には出さない、つまり人に伝えることは無くなっていきました。

■チュクルーブ隕石

他者へ自分の意見を伝えるための方法というのはいくつかありますが、僕は文章にして伝えることよりも言葉で伝えようとする場面が多かったように感じています。これこそが相手に自分の意見を伝える事が苦手である証拠だと思っています。
もし自分の中にとてもよい思いつき(画期的なアイデアや良いプラン)が起こり相手に完璧に伝えられる自信がある時には、それを何かに書き起こして文章で伝えていると思います。それ故に自分が完璧に伝えられる自信がないので大事な部分だけをピンポイントにかいつまんで説明・印象づける事ができる話し言葉を選択していたのだと感じています。
また、話し言葉は比較的責任を取らずに済む形態であることも無関係ではないと思います。一度何かに書いた言葉というものは自分が消去しない限り何度でも見直す事ができる代物です。よって書き言葉として何かを書くという事について少なからず責任を感じるはずです。このことから僕が書いて伝える事を避けがちだったのは無意識的に書く事で生じる責任を感じて逃げていたということだと思います。つまり上手く伝えられる自信が無かったのだと考えました。
以上を踏まえて苦手に投票しました。

■コバ

隕石君の場合は言語化の段階で、相手に伝わると確信が持てる構成ができているという状態を作ることが苦手、ということでしょうか。そこに関しては、文章を作る訓練を積めば解消すると思います。
また、話し言葉と書き言葉の性質の違いに着目する経験を積むことで、あらゆる要素を加味しながら人に伝えるフォーマットをその場面ごとに選択できるようになると思います。

■YY 12

「苦手」に投票しました。
自分の考えを言語化することと吃音・あがり症が酷かったので対人コミュニケーションにも不安を抱いているのが理由です。
現在でこそ少し改善されているものの、昔から吃音や緊張しいさには悩まされてきました。小学校低学年の自由研究の発表では、緊張してほとんど一言も発せなかった記憶があります笑
言語化に関しても、多分訓練が足りてないせいだと思いますが、生焼の状態で結局自分が言いたいことと異なった様に発信しているのではないかと思ってしまうことがあります。

■コバ

言語化に関しても、多分訓練が足りてないせいだと思いますが、生焼の状態で結局自分が言いたいことと異なった様に発信しているのではないかと思ってしまうことがあります。

自分の言いたいことが異なった形で他者に解釈される事、これは防ごうと思っても完璧に防げるものではないですが、“生焼“ではなく“こんがり焼き目がつくくらい焼く“ことで、かなりリスクヘッジはできると思います。

■Hiroto

伝える」に「伝わったことの確証」を含めなければ、得意であると思います。言いづらいこともアホのふりして切り込んだりしますし、伝えたいのに我慢するといったケースはほぼありません。
「伝えたいことは伝えられる」という意味で得意だと言っています。ここには私のものの捉え方二つが影響していると分析しました。一つめは「相手がどう感じたか知る術がないので変数に入れない」ということです。相手に伝わったかどうかを考慮に入れ出すとそれは私で閉じた(私が得意かどうかの)属性ではなくなってしまいます。「相手による」という一番しょうもない答えをするか、「統計的に〜」とかいいながら大してデータを取ったこともない肌感覚の話に終始してしまうくらいなら、私の内面のみで解答する方が(そしてそこから膨らませて今のように分析するのが)良いだろうと判断しました。二つめは「伝えなかったのならそれは伝えたくなかったということだ」という、ある種ずるい捉え方です。これは自分の意志というものを精一杯拡大した捉え方で、傲慢と言われればその通りなのかもしれませんが、「やりたい」を「すでにやっている」ことと限りなく等しくするように心がけています。「やりたくはないけどやった」というのは、いろいろな他のパラメータも考慮に入れて天秤にかけた上で「やる」ことを"選択"しているのだから、それは広義の意味で「やりたい」のだろう、という考え方で生きています。
本当に"選択"をしているのかという箇所に議論の余地がありますが、ここは信念というか信仰の部分なのかなという気がします。少なくとも自己の内観(意識という余剰の観察)だけでは本当に自分が選択していると言えるのかは判定できないと思います。

■コバ

Hiroto君が書いてくれた

「伝えたいことは伝えられる」という意味で得意だと言っています。

の文章に注目してみます。
文脈も加味すると「伝えたいことは伝えられる」というのはつまり、「(自分が)伝えたいことは(自分は)伝えられる」ということになるかと思います。これを「(自分が)伝えたいことは(他者に)伝えられる」としてしまうと、そこに“他者“という自分では把握できない存在が介在してきてしまい、不確定要素が無数に発生してしまいます。アンケートの文章を「“他者に“自分の思いや考えや意志を伝えることが」としたのは、そのニュアンスを入れるためでした。

■Takuma Kogawa

身の回りと比較すると、自分自身は言いたいことは言う方だとは思っています。そういう面では伝えることが得意といえます。しかし、重要度が低いと感じることについては、思うところがあっても自分にそれほど関係ないときは伝えないことが多いです。結果的に伝える(表に何も出さずに以心伝心を期待することも含む)よりも伝えないことを選択することをふまえると、どちらかといえば苦手になるのかなと思います。

文字や言葉は人に伝えることよりも自分の考えを整理するために使っています。自分に伝わらないことは人にも伝わらないと思うからです。
人に伝えたとして、最終的に自分の思ったとおりに伝わるかどうかはどうでもいいと思っています。自分の意図していないように認識されても相手にとってプラスなのであればそれでいいと思いますし、ミスコミュニケーションを反省することもほとんどありません。どうしても認識を合わせないといけない場合は、何度もやりとりを往復する力技でなんとかしています。自分の話は誰も聞いていないし、自分も誰かの話は聞いていないという考え方のもと、ある意味気軽に無責任に発信するのがいいのかもしれないと思っています。

■コバ

文字や言葉は人に伝えることよりも自分の考えを整理するために使っています。自分に伝わらないことは人にも伝わらないと思うからです。

激しく同意です。
私も仕事で込み入った説明をする際は、まず自分の中で一旦言語化(時には実際に書いたり)してから、相手に伝えるようにしています。
そして今日も加速するビジネスのスピード(笑)からは取り残されています笑

■イヤープラグさざなみ

伝える」というのは、Hirotoさんが書かれているような「伝えたいことは伝えられる」という意味での「伝える」以外考えられないと思います。「伝える」や「伝達」という言葉は受信プロセスまで、すなわち受け手に届くまでを含んでいると思いますが、伝えようとした側からは相手に届いたかどうかは確認のしようがありません。そういう意味で、双方的に見えるコミュニケーションも、実は一方通行の繰り返しなのだと思います。そもそも「届く」とはどういうことなのでしょうか。私たちは自分以外の誰かに何かを伝えようとするときに言葉を用いますが、言葉の「射程」が人によって異なります。同じ文字列、発音された音であっても、それらと対応する対象の範囲が人によって様々であるということです。そして、その射程の広狭は、単純にその人がそれまでに触れてきた言葉の量に依存していると思います。自分以外の人間と何かを伝え合うときにイメージされるのは、お互いが少しずつ近づいていくような、歩み寄りです。一発で決めようとすると多分外すので、Takumaさんが書かれているようなやりとりの往復は欠かせないと思います。言いたいことがあって、最初にそれを言っているのにやりとりの往復が発生するということは、やりとりの中で行われているのは、同じことの言い換えです。最後に、「苦手だ」ではなく「どちらかというと苦手」に投票したのは、技術的な練習によって「伝える」が以前よりはできるようになったものの、上の意味での「伝える」、すなわち、自分の言いたいことを余すことなく言葉に起こす作業が未だに上手くできていない自覚があるからです。

■コバ

「伝える」というのは、Hirotoさんが書かれているような「伝えたいことは伝えられる」という意味での「伝える」以外考えられないと思います。「伝える」や「伝達」という言葉は受信プロセスまで、すなわち受け手に届くまでを含んでいると思いますが、伝えようとした側からは相手に届いたかどうかは確認のしようがありません。そういう意味で、双方的に見えるコミュニケーションも、実は一方通行の繰り返しなのだと思います。

Hiroto君のコメントの返信にも書きましたが「伝える」には
・「(自分が)伝えたいことは(自分は)伝えられる」
・「(自分が)伝えたいことは(他者に)伝えられる」
の2通りが考えられると思います。後者はさざなみ君の言う通り「届いた」かどうかは確認ができません。その意味で私は「(自分が)伝えたいことは(自分は)伝えられる」ことは得意ですが、「(自分が)伝えたいことは(他者に)伝えられる」ことは苦手な人間と言えます。

■ゆーろっぷ

僕は「言語化の能力」を十分なレベルで持ち合わせていないと日々感じています。言語運用のプロセスにおいては、もやもやしたものを名前をつけて固定する(抽象化)という操作と、身近な事例との共通項を見つけ、それを用いて相手に「わかりやすく」伝える(具体化)という操作があるかと思いますが、どちらも致命的に苦手です。今書いている文章も、書いては消し、という動作をひたすら(必要以上に)繰り返しながらなんとか形にしていますし、うまい「たとえ話」をすることもなかなかできません。そして、こうしたコミュニケーションの前段階で相当なリソースを使ってしまうために、伝えるときに非常に重要な「受け手を想定する」という「自覚」を保つことが難しいです。この「自覚」は、話し言葉(日常会話)ではそこまで必要ないものであるとは思いますが、逆に、そこで求められる「言語処理のオートメーション化」に切り替える柔軟さもありません。会話では相手がダイレクトに「見える」ために、自分の発した(もしくは発されなかった)「表現」に対する反応が嫌でも気になってしまうからです。このような「言語化」と「切り替え」の双方に難儀するかなり不器用な質なので、「苦手」に投票しました。
(せめて前者(言語化)については、この場において「言葉にする」という体験を通して、できるだけ慣れていきたいと思っています)(追記)個人的には、上で述べた「自覚」こそが、「正しく」伝えるために必要なことだと感じています。この場でも数名が触れているように、「相手にどう届いたか」を知る術は究極的には存在しません。これだけだと相手を突き放しているような印象を与えがちだと思いますが、逆にそれをきちんと言語化して認識しており、それを踏まえた上で「伝えて」いるという事実は、自分の表現に対して自覚的である(=「伝える」ことに対してかなりのリテラシーがある)ということの表れのような気がします。

■コバ

そうですね。「相手に伝わったかどうか」を我々は究極的には確認する術を持ちません。ただ、それを自覚することで伝わる可能性を上げることはできます。考えることで、「相手に伝わったかどうかは究極的には分からない」ということは分かります。
思考というものは便利なモノですね。

■蜆一朗

割といろんなことに対して自分の意見をもつことが多いですが、それをストレートに表現することはほとんどありません。歯に衣着せぬ言い方ができれば楽ですが、相手に伝わるように、そして必要以上に毒を吐かないように表現を工夫しなければならないと考えるからです。基本的に自分がしゃべると誰かが傷つくというくらいの意識をもって言葉を選びに選んでいるつもりです。特にジェイラボでは僕でも比較的年長者なので、みんなが気を遣って受け入れてくれているだけだという意識でいます。数名の方が書かれているように、確実に「伝わる」保証がないのはそうなのですが、自分なりの考えをただ「伝える」≒「押し付ける」ことにならないよう無限に伝え方を工夫しようとしてしまいます。そして時間をかけていいなら考えをうまくまとめられる (伝えられるとは言いません) 気はしています。こういう逡巡に時間をかけることを負担に思わないというのは僕自身が自覚している数少ない長所 (?) だとは思いますが、その分いわゆる「即レス」できるような瞬発力はないと感じています。今の時代のいかに瞬発的な返しをできるかという観点から見れば苦手なのではないかと思います。

■コバ

蜆君は火の玉ストレートの豪速球投手かと文章の切れ味から勝手に思っていたのですが、そんなことはなかったのですね笑笑「即レス」の得意なプレイヤーが「伝えることが得意な人」今の世間の風潮はそのようになっていますね。

■蜆一朗

これでもかなり言葉を選んで書いているつもりです T^T 直感的に何か感想を持つだけなら難しくないのですが、最近は視野が少し広くなったのか単にビビりなのか、自分のその感想に落ち度がないかとか、もう少し視点を広げたら納得できたり変だと感じたりするのかとか、いったん飲み込んで慎重に発信しようという心構えを持つようになりました。僕も今年で25ですので、社会の側というかいろんな事情があることだったり、世の中の難しさをちょっとずつ実感してきたりしたこともあり、簡単に批判して文句言ってるだけじゃ駄目だなと思うようにもなっています笑

Day2 笑いと幻想

★コバ

さて、屁理屈大魔王だったコバ少年も中学生になり、「屁理屈」と言われるような考えを人にぶつけることは無くなっていきました。
「周りの人達とは違う自分の考えを表に出しても、親や先生には怒られるし、友達は嫌な顔するだけやん。そんなん全然おもんない。それやったら周りの人に“伝わって“、それで自分も楽しくなれることした方が絶対良いやん!」
そしてコバ少年は「笑い」というものに興味を持つようになりました。
それはなぜかというと、人に何かを伝えた時に「伝わった!」という感覚が欲しかったからです。
自分が「人を笑わせようとする」、そしてそれを見た他者が「笑ってくれる」「やった!伝わった!」相手に“伝わって“、周りからも「コバ君おもしろい〜!」と称賛される。
相手に“伝わらず“、周りからは「屁理屈大魔王」と呼ばれるよりも何倍も“楽しい“と感じたのは、至って自然なことだと思います。「相手が笑ってくれる」ということが「伝わる」という「ゴール」だと思っていました。そして、その“幻想“は打ち砕かれていくことになります。

■Tsubo

未だ「確立」はできていないのですが,僕の頭の中にある概念や思考や情景を他人に伝えるため,そして自分でよりよく理解するためイラストや「ジェネラティブアート」っていうプログラミングで描く抽象画みたいなアート作品を使って自分の表現力を高めようとしています.

他者に自分の思いや考えや意志を伝えるための自分なりの方法、手法を
:1: 確立している    2
@コバ, @Daiki
:2: 確立していない    17
@Naokimen, @チクシュルーブ隕石, @Yujin, @イヤープラグさざなみ, @Shun, @ていりふびに, @イスツクエ, @蜆一朗, @chiffon cake, @YY 12, @ゆーろっぷ, @Takuma Kogawa, @Hiroto, @ingen, @匿名希望, @Tsubo, @あんまん

■コバ

上のコバ少年の物語は、他者に自分の思いや考えや意志を伝えるための自分なりの方法、手法を“笑い“という形で手に入れたという1つの具体例でもあります。
アンケート内の「方法、手法」は、音楽や絵やダンス、文章、喋り等、なんでもかまいません。
できればどんな方法あるいは手法で、どんな風に確立している、してない、ということまで教えていただけると嬉しいです。

■イヤープラグさざなみ

アンケートの内容とは離れますが、上の少年の話を読んで感じたことを少しだけ。自分が「相手にこうしてほしい」と思ってなんらかのアクションを起こす際、どのアクションを選択するかを決めるのは困難です。それは、相手から自分の望む行動(上の例では「笑い」)を引き出すためには、「自分が相手の立場だったら」以上の想像力が必要であり、その想像力を持つことが難しいからです。笑いの例では、「自分が相手の立場だったら」の考えに従うと、「自分がそれをされたら笑う」ことしか選択肢に昇りませんが、それだと自分と同じようなことに対して笑う人間にしか通用しません。私は、自分が高校生の時に気づいたのですが、周りの人間と笑いのツボが違うようです。友達と話している中で、自分一人だけが笑い転げるような場面が何回もありました(大学生になった今でもよくあります)。僕のような人間が他人を笑わせることを企てた場合、自分がそれをされたら笑うことを相手にそのまましても「外し」そうなので、「自分はそれをされても笑わないが、相手は笑うであろう」選択肢を考えなければなりません。「自分が相手の立場だったら」以上の想像力が必要になるというのはこういうことです。自分の感覚を無視して「相手に立場だったらnot“自分が”相手の立場だったら」を考えるのは、そもそも「考える」とも言えない気がします。統計的なデータに頼っているだけだからです。空虚にパンチを打ち込むようなこの方法は、少なくとも私にとっては「身が入らない」し、気持ちが悪く、長続きしないと思います。

追記
上述の「想像力」は、もはや想像力とは呼べないかもしれない。

■コバ

おはようございます。昨晩予定が入ってしまったため、夜が開けてしまいましたが3日目の投稿となります。

Day3 人に何かを伝えることに意味はあるか

★コバ

なんだろうこの違和感は。自分が人を笑わせたいと思って、そして人が笑ってくれる。それでいいじゃないか。
その違和感とは、結局「笑い」はどこまでも「笑い」でしかないということでした。他者に“笑い“を与える、一見聞こえは良いです。その他者から「面白い!もっとやってよ!」と言われることもありました。
私も最初はそれが嬉しく、それに応えようともしました。実際素人レベルではそのリクエストに応えられていたと思います。
しかし、徐々に気づいていきました。「笑い」は「笑い」であり、「伝わる」とは違うということに。

つまり「笑い」は「笑い」という現象であり、それ自体はそれ以上でも以下でも無いということです。後は“笑わせる側“と”笑う側“という構造があるだけです。
そして私は“笑う側“はこの「笑い」という現象が欲しいだけで、その現象を気持ち良く与えてくれるのなら“笑わせる側“、その対象は何でもいいことに気付きました。

結局私は「笑い」のための消費物に自分がなっているように思えてきて、「笑い」に対する興味は消えていきました。
また私の“「相手が笑ってくれる」ということが「伝わる」という「ゴール」“だということも、見当違いも良いとこでした。

自分の考えていることは人には伝わらず、笑いに対する幻想も消え果て、コバ青年はこんな事を考えるようになっていきました。
“人に何かを伝えることに意味なんてあるのか?“と。

そしてコバ青年は“世の中を自分の能力で線引きする“ことにしました。

■Tsubo

人に自分の思いや考えを伝えることに意味はあります.なぜなら,つい先日指導教員に日頃から思っていた不満点をぶつけ,和解したからです(笑).「伝える」という動作に限らず,人間の一挙手一投足はそれをすることでどれだけの微小なものであろうともなんらかの「意味」は発生すると思います.この世界における万物は,道端に転がっている石も感情も全て人間の「解釈」に過ぎないからです.もちろん,その「意味」はずっと後からしかわからないかもしれませんが.

他者に自分の思いや考えや意志を伝えることに意味は
:1: ある    16
@Naokimen, @ゆーろっぷ, @YY 12, @イスツクエ, @チクシュルーブ隕石, @蜆一朗, @ていりふびに, @Yuta, @Daiki, @イヤープラグさざなみ, @Yujin, @ingen, @chiffon cake, @Tsubo, @Shun, @あんまん
:2: ない    1
@Takuma Kogawa

■コバ

上記3つ目のアンケートです。
可能であればどんな風に意味が“ある“あるいは“ない“というところまで教えていただけると嬉しいです。
個別のコメントへの返信は随時させていただきます。

■蜆一朗

ネガティブ日本代表こと蜆一朗ですが、自分の思いや考えや意思を伝えることにまったく意味がないと思うほど虚無的ではありません笑 ただ、場合によっては意味がないなと感じることもあります。例えば、僕のかなり特殊な場合ですが、一人暮らしすることを家族に打診しても絶対に認めてもらえないという諦めの境地に達しています。コミュニケーションの前提が整っていないこのような場合に、意味がないと感じてしまうこともあります。今このコメントを打っていて「いじめの構造」という本について書いた自分の note 記事を今思い出しました。学部生時代に塾講師をしていたころ、簡単なはずのことが通じなかったり上手く教えられなかったりして、他者に伝える難しさを痛感しました。バカの壁ではありませんが「いくら伝えようとしても伝わらない」こともあるのだと理解しました。無力感が原因の 1 つとなって塾講師をやめてしまったのも事実です。ただ、最近は数学の研究を自分でちょっと進められるようになったこともあり、できないことが当たり前の世界に初めて真正面からぶつかるという経験をしています (これをこの年になって初めて経験するあたりに、自分がいかに恵まれて幅の狭い人生を送ってきたかが表れていますねT^T )。できることをやるのが賢い人生だ、大人になったら失敗してはいけないと思っていたのが、やりたいことに向けて少しずつできるようになっていくことが楽しいと素直に思えるようになってきています。貝はもうちょっとで人間になれるのかもしれません。何が言いたいかというと、かつて諦めた「教育に関する自分の思いや考えを発信したり伝えたりする」ことに対してエネルギーが回復しつつあるということです。正確に言うと、思うように伝わらなくてもよく、自分にできることをやったり、だれか少数にでも伝わったり聞いてくれたりする人がいたり、自分とは異なる考え方の人がいてもよかったり、そういう風に思えるようになってきています。コミュニケーションによって自己実現や自分および他者の尊重ができるようになれば「無意味だ」とは感じないのかもしれませんね。

Day4 世の中を自分の能力で線引きした末路

★コバ

「人に何かを伝えることに一体なんの意味があるのか。必要なのは自分の考えや意志を人に伝えることじゃない。自分の“能力“で、出来る事を線引きすることだ。そしてその“線”は自分の能力を高めてなるべく自分の利益が得られる“線”を引くんだ」
いつしかコバ青年はこういった考えを持つようになっていきました。そのため、コバ青年は自分の能力をなるべく高めようとしました。逆に自分の能力を高めることに関係の無いコミュニケーションや人間関係は軽視するようになっていきました。もしコバ青年が実際に能力を高め、能力の高い人間として社会の中でポジションを形成していけば、そのままその人生を突き進んでいたことでしょう(それが良いか悪いかはまた別のお話)
しかしコバ青年にはどうやらその能力は無かったようです。能力の低い人間を見下していた青年は、己自身もまた自分が見下していた“能力の低い人間“であるという現実に直面しました。
ただただ能力を高めれば全てが上手くいくと考えていた青年は、いつしか何者にもなれなかった“ただの人“になっていました。

■コバ

本日はアンケートはありません。
明日が今回のWSラストのアンケートとなります。

■チクシュルーブ隕石

他者に自分の意志を伝えることによって発生する効果はあると考えています。
まず相手に伝えることによって自分の中で区切りをつけ、線引きをすることができるためです。何か重大な決断をする時に自らの意志を伝えることで覚悟を示すという行為は相手がどうであるかに関わらず、自分の中で区切りをつけるという意味合いを持っていると思います。
ふと『意味がある』と『意味を持たせることができる』は異なる概念なのではないかと思い始めました。どちらが先行するものであるかによってこの質問の捉え方が変わってくるのかもしれないですね。

追記
ジェイラボという空間自体が所長の意志発信によって、能力主義等々に問題意識を持つ方々が集まり活動しているという点において意味があるといえそうです。もしジェイラボが受験勉強のみに特化していたコミュニティであったら僕は入ラボしていなかったと思います。所長の意志発信に対して心を動かされたという部分で入ラボを決心したので、体験の面からも意味があると思います。

■イヤープラグさざなみ

自分が他者から思いや考え、意志を伝えられたときのことを考えると、(それが良いものであるか悪いものであるかはその判断基準に依るため一旦置いておいて、)程度の差こそあれ、伝えられた後の自分の思いや考え、意志は、他者のそれらを伝えられる前と比べて変化しています。この変化、もしくは何かしらの反応が起こることこそが「意味」だと思います。思いや考え、意志は言葉にして発信すると、受け取り方は完全に受信者に委ねられます。つまり、ひとまとまりの文章があったときに、読み手によってそこに読み取るものは異なります。発信者の意図とは違ったように解釈されるかもしれません(そもそも「発信者の意図と受信者の解釈が一致する」状態が原理的にあり得ないのではないか)。それでも、他者の発信に触れて何かしらの反応が起こることは確かです。

各人の独白がどこかの誰かにとっていい感じの刺激になっていれば、もうそれで意味はあると思います。だとしたら行き着く先は、個人的な物語の量産なのか。顔の見えない人たちに向けて自分の考えを発信するのか、目の前の一人に対して思いを伝えるのかによっても考え方が変わるかもしれません。まだまとまっていません…。

■Takuma Kogawa

「意味がある」が多数派でしたので、意味がないという方面を弁護できないか考えてみます。意味がまったくないという主張ではなく、あまりないというところに着地したいと思います。

隕石さんのいうように、誰かに何かを伝えることで発信者の内面に何らかの効果、変化を期待することはおかしなことではないと思います。では、伝えようとしたことが相手に何の影響も及ぼしていないように見える場合も「意味があった」と考えてよいのでしょうか。
もちろん、意味があると信じてもよいでしょう。自分が無意味、無価値な人間だと思うことから逃げることができます。しかし、日常的なコミュニケーションであれ学術的な議論であれ、発信された内容を評価するのはいつでも受け手ではないかと思います。大昔の研究が最近になって評価されることがたまにありますが、それは(発信者を除いて)これまで価値のない内容だと考えられたものが、価値があるものだと再評価されたということと認識しています。相手に発信内容の評価をさせているという面での意味(あるいは影響)はゼロではありません。しかし、相手にとって意味のないこと(「伝えられたこと」そのものへの評価と、内容の評価)は、やはり意味がないのではないでしょうか。たとえば、イヌネコに「かわいいね」ということと、赤ちゃんに「かわいいね」ということは、どちらも相手にとっては意味がないことではないでしょうか。自分と他者の双方あっての「伝える」という行為について、自分への影響をもって「意味がある」としてよいのでしょうか。

Day5,6 意味とは何か

★コバ

「自分はこれからどうしていくべきなのか。とにかくその答えを見つけないと、人生を前に進められない」
その答えを見つけるために色んな本を漁ったりもしましたが、本の中にその答えはありませんでした。
こうなったら自分で考えるしかありません。他者に自分の思いや考えや意志を伝えることに意味があるか。そもそも“意味“とは何か。
突き詰めて考えた結果、“意味“とは「その現象の作用」と私は定義しました。
例えば「水を飲む」これは意味があるでしょうか、無いでしょうか。喉が渇いている人にとっては「意味がある」と言えますし、全然喉が渇いてない人からすると普通「意味が無い」となります。つまり意味が“ある“とか“ない“とかいうのは、“自分“が”特定の対象A”に対して“その現象の作用“が”ある“か”ない“か”判定して決まる、それだけのことです。
全てに虚無的になってしまえば“自分“が”人“に”何かを伝えること“は「何にも作用せず」、判定は意味が“無い“となります。
そうではなく“自分“が”人“に”何かを伝えること“に何かしらの作用が“ある“と思えば、判定は意味が“ある“となります。“自分“が”特定の対象A”に対して“意味があるかないか“判定するので、結局「自分次第」ということになります。
これは「意味の無いことなんて無い」というポジティブ系統の話ではありません。
突き詰めて考えた結果、自分次第“でしかない“という話です。他者に自分の思いや考えや意志を伝えるはずが、結局“自分“に返ってきてしまいました。

他者の思いや考えや意志を汲み取ることが
:1: 得意だ    2
@Daiki, @イスツクエ
:2: どちらかと言うと得意だ    8
@Naokimen, @ていりふびに, @chiffon cake, @YY 12, @ゆーろっぷ, @Yuta, @Shun, @シト
:3: どちらかと言うと苦手だ    5
@イヤープラグさざなみ, @蜆一朗, @チクシュルーブ隕石, @Yujin, @Tsubo
:4: 苦手だ    1
@Takuma Kogawa

■コバ

上記今回WS最後のアンケートです。
「ワークショップ:応用問題」ということで、最後はひっくり返して「他者の思いや考えや意志を汲み取る」ということを突き詰めて考えてみてください。
可能であればどんな風に“得意“あるいは“苦手“というところまで教えていただけると嬉しいです。その他、今回のWSの内容に関連して何か考えたことや感じたことがあれば投稿いただけますと幸いです。

■Tsubo

自分は自分,他者は他者,究極的には「他人の考えていること」なんかわかりようもあるはずがないと思っているし,わからないこと前提で生きている節はあります.そんなことペシミスティックだろと言われるかもしれませんが,悲しくなるまでもなくただありのままの事実として捉えています.人はなんで「他人のことをわかろうと」するんですかね?自分の眼がある以上偏見は絶対に介在するはずだし,その人の「本当の姿」なんてあるはずもなかろうと思っているのですが.他人の考えることがわからなくてもそれはそれで別に良いんじゃねと適当に思っています.「わからないものはわからない」対象と,「わからなくても頑張って考えてみる」対象を自分の中で無意識に分けているのかもしれません,

Day7 それを“したい“から

★コバ

結局自分次第でしかないのであれば、あとは自分が“どうしたいか“それだけの話です。
そして「人に何かを伝えることに意味があるか」という問いには答えを出しましたが、実際に「伝えようとするかどうか」つまり“どうしたいか“という部分についてはその答えの中では語れていません。
つまり“どうしたいか“という“動機“の部分は「人に何かを伝えることに意味があるか」という問い、答えの射程範囲外ということです。

「人に何かを伝えるということ」私にとってそれは伝えることに意味があるとかないとか、そんなことは関係無く、ただ自分がそれを“したい“からしているという結論に達しました。

得意か苦手か、あるいは方法、意味の有無、そういったアンケートを用いながら思考の旅をしてきましたが、最後は“したいからしている“というゴールに到達しました。
いや、スタートに戻ってきただけかもしれません。

何はともあれ、ゴールに辿り着いたのであれば今回の思考の旅は一旦ここまでとしましょうか。

皆様哲学部WSにご参加いただきありがとうございました。
また、コメントいただいた方々ありがとうございました。
答えきれていないコメントには、来週WS掲示板で個別にではなくまとまった形で返信させていただきます。
それでは次のWSでお会いしましょう。お疲れ様でした。


以上、私が皆さんに”伝えたい”から”伝えた”内容です。
最後までお読みいただきありがとうございました。





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