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変換人と遊び人(24)(by フミヤ@NOOS WAVE)

面白きこともなき世を面白く⑦
~“遊び”概念のフラクタル性に基づくネオ「ホモ・ルーデンス」論の試み~

「いつ死んでもいい」「死ぬのが待ち遠しい」という思いさえ湧きあがる・・・・・・などと前に記したけれど(19)、そんな思いとともに日々を過ごしていると不思議なことに、「生」が充実してくるというか、文字どおり「生き生き」した感覚に満たされてくる一方、然るべき相手には伝えたいことを早めに伝えておきたいというこれまた奇妙な衝動が湧いてくる、それこそ明日死んでもいいように(笑)。そんなわけで本稿では、憚ることなくその衝動にしたがって、若手スピナーズのみなさんにお伝えしたいことを記すことにしたい。
 
「死」の意識化意識変容を力づよくトリガーすることは疑い得ない。またそれは、人間型から変換人型へのゲシュタルト移行の第一歩たり得るといっても間違いではないだろう。半端者のくせに「まず死より始めよ」前稿)などと述べたのはそう考えてのことだが、私は若い人にこそ、それをつよく訴えたいと思う。というのは、「死」が明瞭に意識化されないままで「生」をいかに思考しようと、その思考対象は結局、偽生または擬生でしかなかった!とわかる認識上の体験は、若いうちに経た方がいいに決まっているからだ。
 
偽生/擬生という表現に対しては、「ちょっとラディカルすぎるんじゃね?」というご意見もあるだろう。しかし「生」「死」は、メビウスリングウラオモテのように分割不可能な二つの側面的態様であり、それは素粒子(量子)がもつ粒子性波動性(あるいは局所性非局所性)に重なるように私には思えるのだが、どうだろうか。いずれにしても「生」「死」はそれぞれ別ものではなく、川瀬統心さん用語をお借りして異質同体((11)参照)と呼ぶのが妥当な主客一致体であって、本来なら「生と死」ではなく、“と”を取り去った「生死」の一語(ワンワード)で表すのがスジだ(そういえばジャック・デリダには、同様の観点からタイトルを『生と死』ではなく、あえて『生死』とした講義録がある)。そんな視座に立てば、一方しか意識しないばかりか他方を忌避、敬遠、嫌悪したりすることが、いかにバランスを欠いているかがわかろうというもの。

先日のヌーソロジーサロンでは「生」「死」が覚醒と睡眠に喩えられていたけれど、それに沿っていえば、覚醒時の活動は睡眠があればこそという認識はだれもがもっているし、覚醒が睡眠にウラ支えされているという感覚もある。にも関わらず、少なくとも私たち現代人に「生」「死」があればこそという認識はないし、ウラ支え感を覚えることもない(太古の昔はあっただろうが、いつの間にか失われたに違いない)。だから私としては、そんな本来的認識を欠いた状態でいくら「生きかた」や「どう生きるか」に思いをめぐらせても、それは偽生/擬生を思考することでしかないのでは?と思わざるを得ないのだ。
 
しかしヌーソロジーは、その空間認識を通して本来的認識/感覚をアナムネーシス(想起)させてくれる要素に満ちている。そしてその要素群を各人の思考において活性化させる大きな力を秘めているのが「死」の意識化という営為にほかならない、と私はみる。だからこそ若いスピナーズのみなさんには、声を大にして「まず死より始めよ」といいたいのだ。日常的な「死」の意識化はヌースの理解度を高めるだけでなく、それ自体がヌースの実践・運用になるからでもある。ヌースと「実践・運用」の組み合わせには違和感を覚える向きもあろうが、以前(18)でも述べたように、私には「実生活にこの叡智を用いなければ、なんの顔(かんばせ)あってヌースに接しているのか?」という思いがある。そんなわけで、理解度がいかに半端者レベルであろうと、ともかく実践・運用に重きを置きつづけたいと思う。
 
そんな我がスタンスに対して、「いやいや、ヌースの全貌を完璧に把握して完全に理解するのが先決で、実践や運用はその後だよ」というご意見も若い世代の方々のなかにはあるだろう。しかしそれは、たとえば水中に自らの身体を浸すことなく座学だけで泳ぎを身につけようとする考えと同じように、私には思える。実践・運用を試みる途上で錯誤や困難が生じようとも、叡智というものは実践・運用してナンボ(笑)、いわんや根源叡智においてをや!ではないでしょうか。しかもヌースは次元を跨ぐ高次元OSにも喩えられる、高度に有機的な体系なのだ。絶え間なくアップデート(更新)が続くOSや無限の結合が可能な有機構造は、ホロムーブメント(holomovement)((21)注3参照)の縮図のようなもの。したがって固定化、断片化に繋がる「完璧」「完全」などの語・概念とは本来的には無縁であり、その点はヌースも同じだと思う。半田さんはもちろんのこと、研究所物理部のみなさんのさらなる深掘りとその検証プロセスを経たアップデートや新たな結合は今後もずっと続き、そして将来的には、現在若手のみなさんがそれに関与していくに違いないのだ。だからヌースにおいて「完璧」「完全」を措定すれば、その時点でヌースではなくなるというとこれまたラディカルな印象になるが、そんな感覚をもってもいいのではないだろうか。

ハナシは逸れるが、じつは NOOS WAVE の活動(といっても勝手に細々と行っているだけw)は、若年世代をターゲットにしてスタートしたもの。若い人たちにヌースを知ってもらう方策に関して半田さんと話したことがきっかけだったことはスタッフ紹介に記したとおりだが、若年世代に照準をあてようと考えたのは、ヌーソロジーがパラダイムシフトをもたらす有機的思想体系だという確信があったから。パラダイムシフトというものは、あたりまえだが、あえていえば時空内限定の概念だ。だから世紀を跨ぐほどの時間が必要だという想定が妥当であり、したがってその実現には若い人たちへの絶え間ない継承が不可欠なのである。

コペルニクス的転回ともいわれる天動説から地動説への移行はパラダイムシフトの代表だが、人々が「地球が動いている?さらに太陽の周りを回っているだと?アホか、気でも狂ったか!」という認識から現在のような認識がデフォルトになるまでには少なくとも百年以上を要したのだ。コペルニクスの『天体(天球)の回転について』が刊行されたのは16世紀なかばの1540年頃だが、その頃、ガリレオ・ガリレイ(1564年~1642年)はまだ生まれてもいなかった。しかしそのガリレオが二度にわたるローマ教皇庁による異端審問を受けた後「それでも地球は動く」と呟かざるを得なかったのは周知のとおりで、二度目の異端審問が行われたのは1633年だ(日本では徳川幕府が成立して間もない頃)。つまり、コペルニクスの仕事からほぼ百年を経てもなお、ローマ教皇庁はじめ社会全体がまだ天動説ベースの認識だったというわけだ。
 
その後、地球上の人々の認識が切り換わるまでどれだけの時間を要したかを考えると気が遠くなりそうだが、ヌーソロジーには当時の地動説どころではないインパクトがあるわけで(全動説ともいえるボームのホロムーブメント論をも内蔵しているため)、お若いスピナーズのみなさんにはなかなかチャレンジングなことになるかもしれない。とはいえ、以前記したヌーストラダムスの大予言!wの年(12)には大きなマイルストーンが訪れるに違いないので、私としては「心しておいた方がいいよ~」などと余計なことはいわない(笑)。
 
というわけで、若手スピナーズのみなさんにお伝えしたいことを記した本稿はここで締めるが、これは半端者の遊び人によるタワゴトとして受けとめて頂いて結構です(笑)。


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