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恵まれているが心底どうでもいい

私はそれなりに努力をしていたのだった。
すべてが冴えなかった、悪くはないが良くもなくって、愛すべき日々ではあったが通りすがりの誰かのくしゃみで吹き飛んでしまいそうなくらいどうでもよかった。そして時折、胃袋が捻じ切れそうなくらい腹が立った。

勉強をしても上の下だった、楽器を吹いたら努力だけが認められた、人と精一杯関わろうと努力をしたら都合の良い人間になっただけだった。人生を通して何かとタイミングが悪かった。我慢強く努力出来たのに、自分の努力そのもののことを信じきれなくてあと少しのところで息継ぎをしてしまったことが何回か。
恵まれているのに中途半端で、だったらうんと貧しい国に、悲惨な時代に生まれればよかった、と思ってしまう自分のことを端的に最低であると思う。

「やるべき事」だけは相変わらず私を追いかけ続けている。「やるべき事」は一体誰がやるべきであると決めたんだろうか、とは考えないようにしている。焦るばかりの気持ちはその日暮らし。
靄がかかったような頭の中を、私は目を凝らしながら迷い歩いていて、かろうじて拾いだした気力とか体力とか能力の欠片みたいなもので日々を繋いでいる。

すべてが冴えなかった日々を積み上げて、大人になったが、今日もまたすべてが冴えない。
時折ぎゅっとかなしくなる。中途半端に塩っぱいなみだが出る。
これまでの日々を巻きとっていた糸車が、多分どこかで途切れていて、ふと何も覚えていないような感覚になることがある。その度に靄が濃くなるような気がする。

靄の中を生きているような気分になるのは、私自身が私の人生のことを
恵まれているが心底どうでもいい生活
だとしか思えないからだ。

不可逆的な日々のその不可逆性を見つめることからいつも逃げている。

恵まれていることは分かっているから乱暴にその辺には捨てられないし、それなのによくよく考えてみればどうでもいいから私は悲しくて、どうでもいいとしか思えない自分に腹が立つ。どうでもいいつもりなのに、この20年の歳月に意味が無いとは思いたくない、私は20年それなりに真面目に生きていたのだ。

恵まれているがどうでもいい生活に生きる私に、この生活がいつか「どうでもいい」訳じゃなくなるその日が果たして来るんだろうか。
それまで日々を繋ぎ続けていられるんだろうか。

時間は、味方なんだろうか。

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