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【レポート】「カロクリサイクル 語らいの記録2011-2022」

震災から11年間の記録 東北から東京へ

目の前の風景や、同時代に(直接的であれ間接的であれ)触れてしまった出来事に対して、自分は何ができるのか。何かしないではいられないのに、怖くて、何が正しいか分からなくて、言葉にすらならない。せめて、今自分の目に映る風景や、出会った人から聞いた話を記録したい。それを共通の足場として語らう場を模索したい。

そんな、「記録」とそれを活用した「語らいの場づくり」を中心に活動してきたNOOKメンバーが、2011年から現在まで、東北と東京で行った企画をぎゅっとまとめた展示「カロクリサイクル 語らいの記録2011-2022」を1月21日~2月5日に開催しました。

展示内容

アーツ千代田3331の展示室では、真ん中に「東日本大震災をめぐる記録/アートの実践 年表β版」と題し、震災前から現在までの、仙台にゆかりある表現者・記録者・NPO等社会活動の動きをまとめた年表を配置。社会全体の出来事とも対照し整理してあるので「この年にこんなことがあったんだ」と、忘れてしまった記憶が多量にあると気付く。

鑑賞者が「思い出に残っているアートや展覧会」をふせんに書けるスペースも設置。


また、2011年から現在までの、NOOKメンバーによる活動がわかるテキスト、チラシ、出会った人々にまつわる記録等も蔵出し公開。


そのほか、NOOKが過去に企画したもの、小森はるか+瀬尾夏美の作品がずらり!展示した作品について紹介します。

「つくる手さぐる手かきわけて」/2018

障害のあるつくり手たちが生み出す作品には、その奥に、つくり手の家族・介助者たちとの「かかわり」や社会福祉施設の営みが見えてきます。「なぜ作品をつくり表現するのか」という問いを、つくり手・家族や介助者などの語りから紐解いていく。

つくり手それぞれの作品を表紙に飾った冊子に、語りを綴じる



語り野をゆけば」/2018
「戦争」「震災」「民話」それぞれの出来事・物語の「語り手」となった3人の歩みを辿りながら、「なぜ人は語り継ぐのか」という問いを考えていく。

震災体験の語り継ぎに携わる長沼さんの話
語り手の相棒である「記録」たち
3人のインタビュー映像も公開。奥には「11歳だった私は」の映像があり、複数の声が交錯する


とある窓/2018
「その窓から何が見えていましたか?」という問いを携えて、岩手・宮城・福島の沿岸部における、語りと風景を記録した旅。生活空間と外部環境を結ぶ「窓」という装置が、語り手の語りと、その人がまなざす風景に輪郭を与える。

震災から7年経った沿岸部の「とある窓」たち


「レコメン堂」/2019
レコメンバー=《他薦者》が「誰かに紹介したい!」と考えた「表現のようなもの」を集めた展示。スケッチ、手芸、小説、写真、手仕事、冊子、語り、うた、踊り、場づくり・・・いずれも、つくり手にとっては「あまりに日常的でささやかなもの」なので自ら「表現」とは呼ぶのがむずがゆい。それらをまなざす他者によって、光をあてる。

「表現のようなもの」とレコメンバーによる推薦文
WEBでも公開中!


台風に名前をつける/2021
ここから2つは小森はるか+瀬尾夏美による作品。2019年10月に発生した台風19号により、土砂崩れや浸水などで大きな被害を受けた丸森町。丸森町に住む人々が「あの台風」を思い出しながら集まると、被害の話だけでなく、土地に語り継がれる民話などが交わされる。3.11と比べてしまうがゆえに、時に語りづらくなる災禍が一体いくつあるだろう。

丸森町での語らいの映像


11歳だったわたしは/2021
震災を記録し続けるなかで「11歳(小学校高学年)前後で体験したことが、その人のその後の人生に大きな影響を及ぼすのでは?」という仮説が浮かび上がる。そこで、11歳から97歳まで各年齢につき一人ずつに「あなたが11歳の頃のこと、何か覚えていますか?」と問いかけるインタビューを行った。この90年余りの間に起こった社会の変化や、たった1歳違うだけでも見える景色が異なることがわかります。

一人ひとりの語りを、1冊のテキストにして並べる
東京と仙台それぞれに暮らす「震災当時11歳だった2人」が、さまざまな「11歳」を朗読し、
オンラインで対話した映像記録


記録、表現、語り、そして「語らいの場」

多数の人を巻き込んだ「大きな災禍」や「大きな出来事」はたいてい、最初はマスメディアによる報道で知る。少し時間が経つと、書物や作品によって出来事が整理され、また、復興工事などが進むと強制的に風景の変化を認識させられる。それらは、ある種完成されたアウトプットとして、時に「受け取り方」まで完璧に設計されて、一方的になだれ込んできます。
しかし、それが「現実」のすべてなのだろうか。

今回展示したような、今ここに生きる人たちの記録、表現や「表現のようなもの」、彼らが交わすささやかな語りは、報道や商業的アウトプット、公的産物に比べて、たしかに「弱さ」を持つ。見る人によっては「それに何の意味が?」と思うかもしれない。だけど、弱いからこそゆっくり触れざるを得ない。立ち止まって眺めると、すでに知っていたはずの現実が、全く違った姿を見せてくる。語り手や表現者たちが、目の前のヒリヒリした現実と向き合った時の息づかいこそが、「抜け落ちている何か」を私に気付かせてくれる。

記録、表現、語りには共通点がある。受け渡したい「他者」を想像しながら、その他者をまるごと信用して投げ出されていること。相手の受け取り方を無理やりコントロールするのではなく、ただ自分が大事だと感じたことが「なかったこと」にならないよう残しておきたい。このシンプルな動機が、受け手に「これについて語りたい」と思わせるのだとしたら、あとは語らう場さえあれば、継承が続くのではないか。大きな災禍も、個人にとって忘れがたい小さな出来事も。

レポート:八木まどか、 記録写真撮影:加藤甫
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