見出し画像

東京大空襲・戦災資料センターを訪ねて

2023年5月26日 カロク採訪記  櫻井絵里

居心地のいい場所へ

住吉駅の長い階段を上りきると、薄く雲がかかった空が見えた。寒暖の差が激しい日が続いていたが、この日は気温もちょうどよく、フィールドワークにぴったりの日だと思った。今日はNOOKの瀬尾さん、中村さんと、過去にNOOKのワークショップに参加したメンバーで「東京大空襲・戦災資料センター」と「わだつみのこえ記念館」に行くことになっている。私は過去に「記録から表現をつくる」と「カロク・リーディング・クラブ」というワークショップに参加したことがあるので、その関係で今回のフィールドワークに誘って頂いた。その関係がその場限りでなく、こうしてゆるく(ここ重要)つながっていられるのは本当にありがたい。歴史や災禍の話って、意外とできる場所が少ないから。
最初の目的地、「東京大空襲・戦災資料センター」は住吉駅から歩いて20分ほどのところにある。少し遠いが天気が良かったので気持ちよく歩けた。駅から猿江恩賜公園の方へ向かうと隅田川が見えてくる。川沿いには公園や船乗り場などがあり、隅田川が人々の生活に馴染んでいるのが分かった。緑と水の多いところで風が気持ちいい。10時半に東京大空襲・戦災資料センター入り口で待ち合わせし、さっそく中へ入った。私たちの他にも何人かオープンと同時に来ている人がいて、戦争に関心を持つ人がちゃんといるんだ、と思った。会社や学校で震災や戦争の話をしても、真面目だねとからかわれてしまうことが多いし、東京は他にも新しくて面白いことで溢れている。だから過去のことを引きずっているのは私だけなのかなとつい思ってしまう。そんな訳ないのはわかっているのだけど、そんな「話したいけど話しにくい」人たちにとって、NOOKのワークショップは居心地のいい場所なのだ。

さながら、大人の社会科見学の様相。



空襲の歴史

入り口から入って右側に受付があり、入館料を払う。その部屋には本棚や机、椅子もあり、開架書庫と調べもの・談話スペースになっていた。空襲に関する書籍や絵本がたくさん置かれている。奥へ進むと「別館 映像・講話室」がある。映像の上映やイベント会場として使われるそうだが、この日は焼け跡の写真や空襲の歴史年表、被災地図などが展示されていた。
最初に見たのは空襲の歴史年表だった。そういえば「空襲」という言葉はよく聞くけど、いつどのようにして始まったのかよく知らない。なぜ空襲が起きたのかを考えるには、空襲の歴史を知っていたほうがいい。資料によると人類が初めて空襲を行ったのは、1911年第一次世界大戦直前に起きた伊土戦争でイタリア軍がオスマン(現リビア)軍部隊を攻撃したときだという。その後第一次世界大戦を経て、空襲は「敵国民の戦意を喪失させ戦争を早く終わらせるもの」として正当化されるようになった。1923年には「空戦に関する規則案」が定められ非軍用機や民間人への攻撃は禁止されたが、実際には空襲による民間人の死者は多い。あまり効果がない規則だったのか、ほとんど意味をなしていなかったようだ。東京大空襲でも多くの民間人が亡くなっている。1945年1月27日、2月25日、そして最も凄惨を極めた3月10日の空襲は武蔵野市にある中島飛行機武蔵製作所を爆撃するという名目だったが、結局市街地が攻撃された。空襲は最初から民間人を狙うものだと思い込んでいたが、一応名目は軍事施設の攻撃だったということを初めて知った。また、資料には日本も他国で無差別爆撃を行っていたことが書かれていた。今もロシアとウクライナの戦争で罪のない人たちが攻撃されていることを思い出す。国際法を無視した戦争はこの頃からずっと続いているようだ。

空襲の歴史年表は、一階の部屋全体をぐるりと囲うように掲示されている。
「飛行機が誕生して約120年。そのほとんどの期間、世界のどこかで空襲がおこなわれています」という文字。



被災地図が語る空襲の凄惨さ

次に壁に大きく張り出されていた被災地図を見た。被災地図とは東京大空襲で焼けた地域や仮埋葬された人の人数などが記載された地図だ。これを見ると江東区、墨田区の被害が特に激しいことがわかる。先ほど通ってきた緑の多い隅田川の景色からは想像もできなくて言葉を失ってしまう。自分が今住んでいるところを探してみると、ギリギリ焼けてしまっていた。すぐ隣の区画は無事だったのに。今日までそのことを知らずに住んでいたが、明日から買い物や散歩に行くときに「ここは焼け野原だったんだ」と思いながら歩くことになりそうだ。どうして隣の区画は燃えなかったのか、もしまた大火事が起きたらどうやって逃げればいいかなどを考えながら、しばらくその地図を眺めていた。

下町都心部の消失地域が一目瞭然のマップは、壁一面に大きく飾られていた。



おのざわさんいち氏の体験画


資料や地図の他に絵画も展示されていた。特に目を引いたのはおのざわさんいち氏が描いた体験画だ。おのざわさんは昭和・平成に活躍された画家で、東京大空襲・戦災資料センターの初代館長、早乙女勝元さんと絵本も出版している。戦争中は防衛部隊員をされていて、東京大空襲の後は遺体の処理も務めたそうだ。おのざわさんの絵はいくつかあったが、特に目を引いたのは「江東・弥生の空、もっと生きていたかった」という作品だ。隅田川と、有名なアサヒグループ本社の金色のビルが描かれている。誰もが知っている浅草のお馴染みの風景だ。しかし一つ違うのは、その空の上には防空頭巾をかぶったたくさんの子供たちが雲の上から隅田川を見下ろしていることだ。子供たちの頭の上には天使の輪っかがあり、背中から小さな羽が生えている。この絵を見た瞬間、はっとしてしばらく絵に目が釘付けになってしまった。私は普段隅田川の遊歩道をよく散歩するのだが、その空に空襲で亡くなった人たちがいるなんて考えたことがなかった。いつも歩き慣れている道は、この子供たちが生きて歩きたかった道だったのだ。今ではここにスカイツリーが加わっているが、その景色をこの子供たちはどんな気持ちで見ているだろうか。今度隅田川に行くときは、この子たちのことを考えながら歩いてみたい。きっと見慣れた景色が違って見えると思う。

様々な視点

映像・講話室を出ると次は2階に展示が続いている。1階の展示は企画展で時々入れ替わるそうだが、2階は常設展になっている。資料がかなり豊富で、「戦時下の日常」・「空襲の実相」・「空襲後のあゆみ」・「証言映像の部屋」という4つのコーナーに分かれて展示されていた。写真や資料だけでなく当時の新聞記事や焼夷弾の模型、焼けた腕時計や溶けた硬貨などが展示されていて空襲が本当にあったことをリアルに伝えていた。生存者の体験記や体験画からも恐ろしさが伝わってきて、自分が同じ目に遭ったら冷静に逃げられるだろうかと不安になった。
ほとんどが当時の日本や東京の資料だが、いくつか視点の違うものもあったので紹介したい。「空襲の実相」というコーナーにB29や焼夷弾の資料があり、その中に「焼夷弾の開発と空襲の映像」があった。その映像には展示されている模型と同じ焼夷弾を慣れた手つきで制作するアメリカ人が映っていた。淡々と流れ作業をするその手や表情には感情がなく、周囲の空襲の凄惨さを伝える資料と温度差を感じた。私はこの人は焼夷弾がどういうものか本当の意味でわかっていないと思った。作り方や仕組みはわかっていると思うが、そのせいで亡くなる人や家を失う人のことを想像できていないように見えて悲しくなった。このような光景も「東京大空襲」の一部だと思う。しかしこの人一人を責めたところで解決する話でもなく、なんとも複雑な気持ちにさせられた。
また「朝鮮人の空襲被害」というコーナーもあった。関東大震災で朝鮮人に対するデマがあったことは知られているが、東京大空襲での被害はあまり知られていない。当時の東京には出稼ぎや戦時動員で朝鮮人が多くいたという。空襲の時は彼らももちろん被害に遭った。展示には朝鮮人の空襲体験や東京大空襲朝鮮人犠牲者追悼式のパネル、朝鮮出身の死亡者名簿などがあった。これらの記録も東京大空襲を様々な角度で知るために重要だと思うし、忘れてはならないと思った。

当時の防空新聞【隣組回覧】。
焼夷弾に対して「少しも危険はない」「案外、消しやすい」と訴えている。



東京で生きること

気が付くと2時間以上展示に没頭していた。外に出るとのどが渇いていることに気付き、急にお腹もすいてきた。ここへ来るときはまだ涼しかったが、すっかり太陽は真上に昇っていて夏のような強い日差しに変わっていた。ふと写真家・濱谷浩の「終戦の日の太陽」という作品を思い出す。東京を歩いていると、こんな風に現在の景色と過去の景色が重なって見える時がある。
私は神奈川県出身で、山を切り拓いたばかりのニュータウンで育った。4年ほど前に東京の今の家に引っ越してきて、東京は道を歩くときに感じる情報量が全然違うということに気付いた。散歩や買い物に行けばその場所の歴史を説明する看板が至る所にあるし、昔の人の気配を感じさせる風景があちこちに残っている。「東京大空襲・戦災資料センター」を訪れた後は特にそう感じるようになった。被災地図に載っていたギリギリ燃えてしまった家、炎を逃れて隅田川に逃げる被災者たち、浅草の空の上から見守る頭巾をかぶった子供たち。その姿が現在の景色に重なって浮かび上がる。神奈川にいた時はこんな気持ちで外を歩いたことはない。きっと東京で生きることとは、過去の気配を感じることだと思う。また誰かに真面目だねと言われてしまうかもしれない。でも東京で忙しく生きる人の代わりに複雑さを引き受けるのがアーティストの役割だと思うし、過去の誰かを思い出すことは今の東京で生きる自分をきっと守ってくれると思う。



(執筆者プロフィール)

櫻井絵里 Eri Sakurai

現代美術家。
東日本大震災の時に病気になった経験を元に作品を制作する。回復してからは自己から他者や社会へ意識が向くようになり、インタラクティブな映像作品の制作やワークショップも行っている。 

https://lit.link/esakurai

***
書き手の励みになりますので、ハートやシェアもなにとぞよろしくお願いします。
またNOOKアカウントのフォローもよろしくお願いします!
***

NOOK
Web

Youtube


Twitter




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?