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語る人、残す人、伝える人、受けとめる人[明治大学平和教育登戸研究所資料館]

2023年6月3日 カロク採訪記 小田嶋景子


明治大学平和教育登戸研究所資料館

6月最初の土曜日、私たちは明治大学生田キャンパスにある明治大学平和教育登戸研究所資料館を訪れた。

館名に入っている登戸研究所は戦前に旧日本軍によって開設された研究所で、「秘密戦」を担っていた。「秘密戦」とは防諜(スパイ活動防止)・諜報(スパイ活動)・謀略(破壊・攪乱活動・暗殺)・宣伝(人心の誘導)のような戦争の裏の面であり、ここでの研究内容は人道上、国際法規上問題を有するものも多い。そのため一般にはその存在を隠し、正式名称を第九陸軍技術研究所といったが、地名をとって「登戸研究所」と呼ばれていたという。敗戦に伴い研究所は閉鎖されたが、1950年にその跡地の一部を明治大学が購入し生田キャンパスが開設、2010年には研究施設として使われていた建物を保存・活用してこの資料館が設立された。

当日はお昼前に生田駅にて集合。今回はNOOKの瀬尾さんと中村さんに加え、私のように過去にワークショップやイベントに参加したメンバーも一緒に参加させてもらった。初めましてのメンバーだったので、駅で簡単に自己紹介をしたのち徒歩で資料館へ。この日は朝のうちは前日の台風の影響が残り天気がやや心配されたが、集合した頃にはすでに雨はやみ、歩くと暑いくらいだった。

途中、神社に立ち寄ると、台風のためか大きな木が倒れていた。その神社は駅を出てまもなくの長~い階段を上ったところにあり、倒れた木は斜面を滑り落ちそうなところをロープで固定されていた。木の太さにびっくりしたり、支えはこれでいいのかと心配したりしながら写真を撮り始める皆さんに(さすが、記録を大事にする人たち…!)と心の中で思ったのでした。

かなり大きな木が根本から…

15分ほど歩いたところで資料館に到着。生田キャンパスでは現在農学部と理工学部の学生たちが学んでおり、資料館の近くにも温室がたくさんあって、土曜日でも世話をする学生の姿があった。まずは各自で資料館を見学し、その後13時から始まる解説付きの見学ツアーに参加する予定となっている。

資料館の外観。写っているのは後ほどガイドを務めてくださった渡辺さん。

資料館のすぐそばに倉庫跡があり、受付の方に言えば中に入ることができるということだったので、まずはみんなでそこを見学。

弾薬庫とヒマラヤ杉

薬品庫だったとも

そこは「弾薬庫」と呼ばれているが、実際にどういう用途で使われていたのかは不明だという。現在の外観は草木に覆われていて、扉の存在はあまり目立たない。内部は何も物が置かれておらず、がらんとしていた。天井は約3mと高いが、広さ奥行約3.2m、間口は約2.7mで、10人ほど入るといっぱいになってしまう。壁や天井は当時のまま残されている。以前は虫がいっぱいだったそうだが、館のスタッフの方が換気をするなどの管理をされたおかげで今はほとんどいなくなったという。

倉庫の周りにある木の話を館の方に聞いていると、研究所があった当時から立っていたヒマラヤ杉並木がつい先週伐採されてしまったという話が出てきた。もともと気候や植え方が木に合っておらず、老朽化と新校舎建設のために伐採されてしまったそうだ。

後ほど資料館の展示を見てみると、そのヒマラヤ杉は車寄せなどとともに旧登戸研究所本館一帯の当時の姿を残す場所としてキャンパス内の史跡の一つとなっており、思いのほか重要な意味を持った並木だったことが分かった。もちろん今ここは大学として機能しており、学生が日々過ごしているのだから学生や教職員の安全が第一ではある。しかし、この場所の過去に想いを馳せられるものが無くなってしまうのはとても惜しいことだとも感じる。コンクリート製の弾薬庫と生きものである木は同じように残すことはできないのだろうが、どうにかならないものかと考えてしまった。

見学の話に戻ろう。弾薬庫から資料館に戻ったあとは各自で展示を見てまわった。資料館はその建物自体が当時研究施設として使用されていたもので、対動植物生物化学兵器の研究開発が行われていたという。現在は5つの展示室に加え、研究所時代に使われていた暗室を見ることができる。

第1展示室では登戸研究所の概要と歴史、第2展示室では物理部門を担っていた第一科の研究内容、第3展示室では生物兵器やスパイの道具を開発していた第二科について、第4展示室では第三科が行っていた偽札製造について、第5展示室は敗戦直前から戦後にかけての研究所のことが分かるような構成になっている。

各展示室自体はそこまで大きくはないものの、非常に濃い内容で解説ツアーまでに一通り見ることはできなかった。

見学会スタート

13時少し前に、集合場所の中央校舎へ向かう。このツアーは見学会という名前で月2回開催されており、キャンパス内の史跡と常設展示を約2時間半かけて巡る。この日は動物慰霊碑→弥心神社→消火栓→5号棟跡→資料館の順で回った。私たちの他にも団体の予約が入っていたようで、そこそこの大所帯でスタート。ガイドをしてくださったのは登戸研究所資料館展示専門委員の渡辺賢二さん。登戸研究所の調査・研究が始まった当初からそこに携わっていらしたそうだ。

動物慰霊碑 科学者と戦争

まずはキャンパスの正門近くにある動物慰霊碑。研究所で行われていた動物実験で犠牲になった動物の霊を慰めるために建てられた。

先に見た展示室にあった登戸研究所のミニチュアでもこの慰霊碑の場所がしっかり示されており、なぜそこまで動物慰霊碑にフィーチャーしているのだろう、関係者の方に動物好きがいるのだろうか?なんて思っていたが、この慰霊碑はガイドのスタートにふさわしい重要な意味を持つ場所だった。

この碑の裏側には「昭和十八年三月 陸軍登戸研究所建之」とある。

ここに「陸軍登戸研究所」という名前が記されていることがとても重要なのだ。

渡辺さんは地元のことを調べている新聞記者からの情報提供により、市民や高校生たちと登戸研究所について調査していた。しかし、人々に戦時中のことを聞いても空襲の話は出てくるが研究所の話は出てこない。防衛省に問い合わせてもその存在を否定され、資料も無いという。そんな中、登戸研究所の名がはっきり刻まれたこの動物慰霊碑は研究所が確かに存在していたことを示す重要な史跡であった。

この慰霊碑は、戦後に研究所の跡地を明治大学の農学部が買い取った際、農学部も動物実験をするのでこれは使える!ということで残されたのだそうだ。(買い取ってくれたのが農学部でよかった!)

さて、この慰霊碑、写真を見ていただければ分かるようにかなり大きく立派なものだ。台座を含め高さ約3m、幅約95cm、奥行約15cmあるという。これは当時の首相兼陸相である東条英機から授与された陸軍技術有功章の賞金の一部を使って建てられ、その金額は現在の1000万円相当だと言われている。なぜこれほどまでお金をかけて立派な慰霊碑を建てたのか。それは、実験で犠牲になったのは動物だけではなかったからだ。

研究所で動物実験を行っていたのは、主に生物兵器、毒物、スパイ機材の研究をしていた第二科だった。対人間用の毒物も扱われており、ここの成果の一つといわれている青酸ニトリルの研究開発には中国の捕虜を対象にした人体実験が行われていたというのだ。陸軍技術有功章の受賞者の一人、伴繁雄さんはのちにこの人体実験について証言しており、「初めは厭であったが馴れると一ツの趣味になった」と語ったそうだ。

陸軍技術有功章を受章することは当時の科学者にとって大変な名誉の証であり、尊敬の対象となったという。「国のため」であれば、それが人を殺す毒物の開発であっても没頭してしまい「馴れる」ほど人体実験が行われ、周りもそれを称揚し尊敬のまなざしを向けてしまう。戦争は人々の精神状態をこうも変えてしまう力があるのかと恐ろしくなるとともに、ここで働く科学者たちは実際、本当に優秀であっただろうに、そして日々実直に研究をしていたのだろうに、その成果が戦争の加害のために使われてしまうことにやるせなさと悔しさを感じた。

弥心神社 句碑から資料館へ

 この神社はキャンパスの北西、少し周りより高くなっている丘の上のような場所にあり、研究・知恵の神様を祀っている。研究所時代からあったものだが、ここも明治大の農学部が土地を購入した際に、収穫感謝祭に使える!ということで残されたという。(買い取ってくれたのが農学部で本当によかった!)

 この境内の片隅に「登戸研究所跡碑」と書かれた碑が建っている。これは1988年(昭和63年)に元所員たちによって研究所が存在していたという事実を忘れまいと建てられたものだそうだ。

 碑の裏側には「すぎし日は この丘にたち めぐり逢う」という句が刻まれている。「すぎし日」というのは墓場まで持っていく秘密として研究所のことを誰にも話さずにいた約40年間を表しており、それを再びこの神社に立ってようやく話し合うことができたという気持ちが詠われている。

元所員同士はまち中で会っても話しかけないようにしていたというが、この神社で行事があると集まってくる。そこで、あなたもあそこで働いていたんですか、と顔見知りになったそうだ。渡辺さんはこの神社のことを働いていた人たちの集合場所だったと表現していた。

絶対にしゃべらないと決意してきたが、それでは青春の日々がなかったことになってしまう。そろそろ話してもいいかなという気持ちになってくる。月日が経つことで秘密にすることよりもそのような思いの方が強くなり、研究所の存在を示す碑をつくり、市民や高校生に研究所のことを語るようになった。さらにそれが資料館建設へつながっていったそうだ。


偽装紙幣の製造

弥心神社のすぐ近くには細い坂道がある。現在学生たちにバイク坂と呼ばれているその坂道から、研究所があった当時は大量の偽札が運び出されていたという。

研究所の第三科では、日中戦争のために中国法幣の偽造紙幣を製造していた。偽札は一番の兵器とも言われ、所内でも第三科に関わる人以外には研究内容を伏せられた秘密の中の秘密であった。

武力だけで日中戦争に勝つことが難しかった日本軍は中国に傀儡政権をつくり、蒋介石政権にダメージを与えようとしていた。また、製造した偽札を物資の購入や給料の支払いにあてたほか、それらを大量に流通させることでインフレを起こし、中国経済を混乱に陥れようとしたのだ。

香港の占領とアメリカ商船拿捕により、実際に使用されていた原版と印刷機を手に入れた日本軍は偽札を大量に製造することが可能となった。総額45億元製造し、35億元が使用されたという。その量を積み上げたとすると、高さはなんと富士山の27.5倍!

偽札の印刷工場があった場所も構内にある。陸軍のマークが入った消火栓が残る場所に立ち寄ったあと、その施設跡である5号棟跡へ向かった。5号棟は登戸研究所時代から使われていた木造建築物だったが、2011年2月に老朽化のため取り壊され、現在は駐車場のようになっていた。

渡辺さんが手にしているのが5号棟の写真。

もとは西洋トラス構造という手法で作られた大きな屋根を持つ平屋建ての建物で、細かい間仕切りを必要としない構造のため、大きな印刷機を置くことができたのだという。

ちなみに隣には偽札の保管倉庫として使われていたと考えられている26号棟の跡もある。こちらは2009年7月に解体された。

戦中、中国国内では激しいインフレが起こったものの、英米が高額紙幣を発行して応戦したため日本の偽造紙幣の価値は下がり、結局日本は中国から手を引くこととなった。しかし、中国国民の間ではこのインフレの混乱によって蒋介石政権への信頼は落ちていった。日本が仕掛けた経済戦争が、その後蒋介石が台湾へ逃れる一因となっていたかもしれないという話を聞き、学校で習った歴史が急に生々しく感じられてドキッとした。

資料館の資料たち

 資料館では開館に向けての様子などを収めたドキュメンタリー映像を見たあと、各展示室を周り解説していただいた。その中で、展示資料のエピソードを語ってくださったものがあるのでここではそれらを紹介したい。

 まず、第一展示室にある『状況申告』という資料だ。これは研究所の予算などが記された公文書なのだが、最初に自分で見たときには完全にスルーしていた。

 研究所の存在を証明するものとして、軍の施設であれば予算請求をしているはずだと渡辺さんらはその資料を探していた。しかし防衛省に問い合わせてもそのようなものは無いと言われたそうだ。そんな中、古本屋さんの知人からこの『状況申告』が古書市場に出回ったという連絡を受け、渡辺さんが見つけたのだ。

 渡辺さんが古書市場で見つけたものはこれだけではない。第四展示室にある1枚の紙に6枚分の紙幣が印刷され、付番も裁断もされていない偽札の未完成品もそうだという。

 次に、第三展示室を入ってすぐ左手にある分厚い資料『雑書綴』。複製のため実際にめくって中身も見ることができる。これは第二科にタイピストとして勤務していた小林コトさんが個人的に保管していたもので、約900ページもある。

 登戸研究所を調査する中で、元所員の方と出会った渡辺さんらは99名におよぶ元所員の名前が記載された名簿を手に入れた。その方々に研究所に関するアンケートを実施したところ、「資料がある」と回答したのが小林さんだった。十代で研究所に勤務していた小林さんはタイプの上達の記録として自分が作った文書を保管していたのだという。

 最後は、第五展示室にある石井式濾水機の濾過筒について。展示室の真ん中のガラスケース内に約350本が積み上げられている。これらは長野県にある伴繁雄さんの自宅の裏庭に保管されていたそうだ。石井式濾水機とは、野戦における飲料水確保のため(細菌戦のためとも言われているらしい…)731部隊の石井四郎が開発したもので、戦況の悪化による長野県への大本営移転計画に伴い、長野県に大量の濾水機と濾過筒が運ばれたと考えられている。

 しかし、この濾過筒はもともと民間で開発されていたものを石井が軍事転用したのだ。本来は関東大震災時に流行った疫病への対策のためにつくられたのだという。道具として使うか、兵器として使うか。使う人によってそれが大きく左右される。今の技術でも同じことだと渡辺さんは語る。

触れるらしい!

 ほぼぴったり(!)2時間半で見学会は終了。見学会の前にひとりで展示を見た後は正直気分が重くなったが、渡辺さんの解説を聞きながら巡るとこれらの史跡や資料が残っていることに対してよかった!という前向きな気持ちになった。この日私が見ることができたものは偶然の重なりと人々の熱意によって残されたものであり、現在もそれらを残し、伝える努力がなされている。失礼ながら今回訪れるまで全く知らなかった施設だが、とてもアツい場所だった。

4時近くまでお昼抜きでストイックに見学していたため、一部メンバーで駅近くの喫茶店にて休憩とおしゃべり。その後帰途につきました。

災禍の語りと聞き手

 渡辺さんたちが調査を進める中で出会った元所員の方たちは「墓場まで持っていく秘密」であった研究所について徐々に語ってくれるようになった。その際「40年経つとだんだん苦しくなる」と言った方がいたという。

また、家族にも当時のことを一切語ろうとしなかった伴繫雄さん。奥さんによれば、それまで伴さんのことを本当に血の通った人間なのかと思うほどだったという。しかし、調査に参加していた高校生に対して、大人には話したくないが「高校生には伝えたい」と言って大人ではなく彼らの方を見て語っていたそうだ。晩年の伴さんを写した写真や映像は重荷を下ろしたような柔らかい表情をしていた。

そして、資料館ができてから訪れた研究所の元関係者は、もうしゃべっていいのか、「ほっとした」と言うそうだ。

戦争という災禍の中でも、登戸研究所に関する証言は加害の記録となる。それは被害の語りとは別種の語りづらさを伴い、語り手の負荷となってしまうだろう。何も語らず自分の中に押しとどめ続けるのも苦しい一方で、語れるようになるにも長い時間が必要なのだと思う。また、登戸研究所の調査の場合、聞き手に高校生がいたというのも大きいだろう。将来を担う若い世代に加害の歴史を繰り返してほしくないという思いはもちろん強くあったと思う。ただそれだけでなく、戦争を直接経験していない彼らは利害関係なくフラットに語りを受け止めることができる。それも語り手が安心して話せるという環境をつくっていたのかもしれない。

出来事から時間が経っていたり、その出来事の「当事者」でないという意識は、聞き手にとって「自分が聞いていいのか?」とためらう要因となりがちだ。しかし、出来事から距離がある人はむしろ聞き手として重要な役割を担っていると言えるのかもしれない。

生田キャンパス内にはところどころに登戸研究所の説明が書いてあるポスターが貼ってあった。

大学の授業で資料館を訪れたりすることもあるそうだ。さらに資料館には小学生・中高生向けの資料もそれぞれ用意されていた。先の戦争には様々な人が様々な立場で関わっていた。ということは、今後も自分がおかれた立場から戦争を語る新たな語り手が出てくる可能性はある。資料館から若い世代への様々なアプローチは、戦争で何があったかを学ぶためだけでなく、若い世代が聞き手になることへの後押しでもあるのかもしれないなと思った。

おまけ

 行きに立ち寄った神社に帰りも立ち寄ってみると、倒木がすっかり片付けられていた!約半日で処理されるという迅速な対応に、都市の安全がかたく守られていることを実感した一方、大事件だったかもしれない出来事が半日で幕を閉じ、ひとまずの日常が戻るというスピード感に、いろいろな景色が知らないうちに変わっていっているんだろうなと改めて感じたのでした。

同じ場所には跡形もなく…
境内の端の方に細かく切断されて置かれていた。

(小田嶋景子/会社員)


参考文献

『明治大学平和教育登戸研究所資料館ガイドブック』

山田朗・明治大学平和教育登戸研究所編、『陸軍登戸研究所〈秘密戦〉の世界』、明治大学出版会、2012年。

山田朗・渡辺賢二・齋藤一晴著、『登戸研究所から考える戦争と平和』、芙蓉書房出版、2011年。


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