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神奈川の関東大震災[神奈川県立歴史博物

2023年9月18日 カロク採訪記  櫻井絵里

にぎやかだった9月1日

普段、災禍の歴史を意識していない人でも、9月1日が何の日か知っている人は多いと思う。学校や会社などで防災訓練が行われる「防災の日」だ。この日は関東大震災が発生した日で、震災の他に台風シーズンを迎える時期でもあることから制定された。今年の9月1日はいつもより特別だった。関東大震災が発生してから100年の節目だったからだ。内閣府や地方公共団体、NPOなどが震災に関するイベントを開催したり、美術館や博物館では関連企画展が多く組まれた。私自身もアーティストとして活動しているので、震災をテーマにした作品をまとめた個展を9月1日に合わせて開催した。午前中には東京都慰霊堂のある横網町公園へ行ってみた。遺族の方だけでなく、出店が出ていたり、地元の老人会の方が飲み物を配っていたり、マスコミや警察、消防、救急も来ていて多くの人が集まっていた。節目の時だけでなく、毎年多くの人に関心を持ってほしいとも思うが、それでも関東大震災にこれだけ多くの人が思いを寄せていること、100年伝え続けてきたことはすごいことだ。

2023年9月1日の東京都慰霊堂の様子。普段はのどかな公園だが、この日は特別。


神奈川県立歴史博物館へ

こうしていつもより忙しい9月1日を過ごしたのだが、実は心に引っ掛かっていたことがある。関東大震災が起きたとき、神奈川県で何があったのかあまりよく知らないことだ。私は神奈川県出身なのだが、学生の頃に関東大震災の話を学校で聞いた記憶がほとんどない。東京の被害については昨年のNOOKのワークショップ「記録から表現をつくる」で横網町公園を訪れた時に知ることができた。しかしその後で神奈川出身なのに神奈川の関東大震災のことをほとんど知らない、ということが気にかかっていた。近いうちに調べたいと思っていたところに、NOOKからフィールドワークのお誘いを頂いた。NOOKからは時々ワークショップに参加した人にメールが送られてくることがある。行き先の一つに「神奈川県立歴史博物館」の特別展「関東大震災―原点は100年前―」があったので、さっそく参加することにした。
神奈川県立歴史博物館は、みなとみらい線馬車道駅の近くにある。この辺りは子供の頃から何度も遊びに来ているが、恥ずかしながらここには初めて来た。大きなコンクリート造りの洋館で 、元々は旧横浜正金銀行の本店として1904年(明治37年)に建てられた。ネオ・バロック様式の旧館部分と、1967年(昭和42年)に増築された新館部分で構成されており、国の重要文化財、国の史跡指定を受けている。NOOKの中村さんと過去にワークショップに参加したメンバーと入口で合流し、さっそく中へ入った。この日は展示の最終日だったためか人も多く、ボランティアの方による解説もやっていて人だかりができていた。

神奈川県立歴史博物館の正面玄関。関東大震災、横浜大空襲を乗り越えてきた"生き証人"。


入ってすぐのキャプションを見ると、関東大震災についての概要が書かれていた。マグニチュード7.9と推定されていて、震源地は神奈川県西部から相模湾にかけてと言われている。関東大震災というと東京の被害がひどいというイメージがあったが、実は神奈川のほうが震源地に近く大きく揺れていた。大きな地割れが起きている写真がいくつかあり、子供のころから知っている街がこんなことになっていたとは知らず驚いた。
次の部屋に進む前に、宮城県旧大内村、丸森町の日誌「大正十二年度 日誌」が展示されていた。丸森町といえば小森はるかさんと瀬尾夏美さんの作品「台風に名前をつける」に出てきた町だ。ここで再び目にするとは思わなくて、ついじっくり見入ってしまった。日誌によると、関東大震災の情報が宮城に伝わり、同地から支援が送られたという。その経緯を示す貴重な資料のようだ。「義援金募集セリ」という文章が書かれている。丸森町の他に宮城県大崎市の大貫尋常高等小学校の「大正十二年度 日誌」も展示されていた。東日本大震災の時は多くの人がボランティアに行ったり募金をしたりしたが、関東大震災の時も東北や他の地域から支援があったことがわかった。
被害の全体を捉えるために、吉田初三郎の「関東震災全地域鳥瞰図絵」に触れたい。この絵は関東大震災の被害があった場所を鳥が見下ろすような角度で描いた作品で、左側に富士山、右下の方には千葉の房総半島が描かれている。東京、神奈川の東側から黒い煙が上がっていて、大火災が起きている様子がわかる。西側の丹沢山の辺りにも火が上がっているが東側ほどではない。このように広い目で見るとかなり広範囲に被害を出した災害だったことがわかる。関東大震災=東京の大火災というイメージがあったが、丹沢や箱根、静岡の方にも大きな被害があったとは知らなかった。

吉田初三郎「関東震災全地域鳥瞰図絵」1924年。左側の山が富士山で、右側の煙が上がっている辺りが東京。出典:神奈川県立歴史博物館デジタルアーカイブ


神奈川で起きたこと

奥へ進むと、関東大震災によって神奈川の地形がどう変化したか模型を使って説明されていた。国府津(小田原市)と大磯のあいだでは1.8~1.9m盛り上がっていて、丹沢山から高尾山にかけては1.6m沈下した。隆起したところが赤黄色、沈下したところが青く塗られていたが、こうして見るととても大きく、複雑な揺れ方をしたことがわかる。丹沢、箱根など山の方は大きな土砂災害が起きた。震災後の松田駅付近の写真が展示されていたが、線路がぐにゃぐにゃに曲がっていて地震の凄まじさを物語っていた。海も隆起したそうで、震災直後の9月10日には海軍水路部が海域の測量の準備を始め、19日から10日間作業が実施されたという。関東大震災は復興のスピードが速かった印象があるが、こういった調査や記録を始めることも速かったのだと驚かされた。
当時の被害が写された写真を見ると、大きなコンクリートの瓦礫が多いことに気づく。それは横浜が港町で外国人居留者が多く、洋館が多いためだと思う。神奈川県立歴史博物館も元は旧横浜正金銀行の本店として造られ、頑強な造りになっている。しかし実際は凄まじい逸話が残されていた。発災した時、この館には行員100名、雇い人80名がいたが避難民も200名やって来て、全員南側に位置する弁天通側に面した地下室に逃げ込んだ。午後3時頃、建物の中も燃えてきて地下室もだんだん息苦しくなってきた。たまたま地下室に小さい桶一杯分の水があったので、300人近くが唇を濡らして凌いだが、ますます息苦しくなり立っていられなくなったという。ついに全員うつ伏せになり、重役らは「あと1時間!30分の忍耐だ」と言って一同を励ました。タイミングを計って少し戸を開け、新しい空気を入れて一同の呼吸を楽にできた。午後4時半ごろ外へ出ると、付近は一面の焼け野原になっていたそうだ。その後ドーム部分なしで再建し、横浜大空襲にも耐えた。博物館になってからドーム部分が造られ、来年で120周年を迎えるそうだ。まさにこの館が生き証人といえるエピソードで貴重な記録だと思った。

「横浜正金銀行附近の惨状」。中央のドーム部分が焼け落ち骨組みのみになっている。周囲は一面の焼け野原。出典:神奈川県立歴史博物館デジタルアーカイブ


復興に尽力した2人の人物


関東大震災は甚大な被害を出したが、復興に注がれるエネルギーもすごいものがあった。展示の第二章「奮う人」では神奈川の復興に尽力した岸敬二郎と池上幸操(ゆきこと)が取り上げられている。岸敬二郎は電気技術者で、今の東芝の前身である「芝浦製作所」に勤めていた。鶴見工場の建設に着手していたが、翌年に関東大震災が起き火災が起こった。業務再開の目途が立ったのは震災から1か月半後、10月中旬頃だった。当時、岸が関係者にあてた惨状を伝える手紙が多数残っている。震災直後は東京から各地への連絡手段が途絶えてしまったため、大阪に向かう関係者に文面を託した。しかし当初の内容と異なり、なぜか「芝浦製作所の損害は軽微」と伝えられてしまった。実際は全滅といった惨状だった。震災後の混乱が見て取れるようなエピソードだ。2か月後には工場の一部が落成し、モーター類の生産が開始されるようになっていった。しかし1924年、関東地震の最大余震とされる丹沢地震が発生する。工場は無事だったがせっかく直した岸の自宅は再び損傷してしまったそうだ。1926年、岸が59歳で没する前年に岸は扇子に標語を書き残した。そこには「過去不煩悶、現在努力、将来持希望」と書かれていた。「過去に煩悶(はんもん)せず、現在に努力し、将来に希望を持つ」という岸の復興にかけた思いが書かれている。
池上幸操は神奈川県議会議員で多摩川河口右岸の池上新田(現川崎市)を開発した池上家に生まれた。震災が起きた時に損壊した自宅の写真と日誌を残している。震災が起きた翌年の1924年7月に神奈川県会の議長に就任し、死去するまで務めた。10月には関東大震災の特別都市計画委員会委員になり、区画整理や復興に尽力した。同潤会の評議員も務め、都市の中間層に向けて鉄筋コンクリートのアパートを作った。会場には都市計画委員の会議資料や同潤会関係書類、神奈川県庁新築工事概要などの資料が展示されていて、かなり綿密な計画が練られていたことがわかる。

震災から現在

展示の前半で見た「関東震災全地域鳥瞰図絵」を描いた吉田初三郎は、震災の約9年後、1932年にふたたび「神奈川県鳥観図」を制作した。横幅4mの大きな画面で、復興する街並みや、東京と神奈川をつなぐ交通網が細かく描かれている。画面左側は静岡県の伊東、下田が描かれ、中央手前に神奈川県の浦賀、久里浜、右側は東京湾が描かれている。右上の方には日光や宇都宮の文字もあった。「関東震災全地域鳥瞰図絵」と比べると神奈川県にクローズアップして描かれている。よく見ると現在の状況と比べて重なる部分が多い。つまり震災後10年で復興が著しく進み、それが現在の骨格となったということを表している。そう考えると「原点は100年前」という展示のタイトルにも繋がる。
足柄地域にある山北町では、震災後の産業復興策として「足柄茶」を導入した。震災で大きな被害を受けた丹沢山地は山林や農地が荒廃してしまったが、1924年に茶の種子を190俵買い各戸に配布した。1925年にも種子を無料配布し、蒔付けを実施している。会場では「足柄茶業振興計画書」や茶摘み、箱詰作業の写真が展示されていた。博物館の入り口にあるミュージアムショップには、足柄茶を使ったお菓子も売られていた。都心部とは違う、山や農地ならではの復興策で興味深かった。こうして関東大震災を乗り切るために始めたことが原点となり、現在まで続いている。

吉田初三郎「神奈川県鳥瞰図」1932年。こちらの鳥観図では富士山が左上の遠くの方に描かれている。中央下が三浦半島で右上には日光や宇都宮も描かれている。 出典:神奈川県立歴史博物館デジタルアーカイブ


「将来持希望」は可能か


今回の展示は関東大震災の被害や記録だけでなく、現在に至るまでの復興の流れまで見ることができてとても充実していた。災禍の記録を見た後にいつも思い浮かぶのは「自分が同じ目に遭ったとき、生き延びることができるか」だった。特に岸敬二郎が扇子に残した「過去不煩悶、現在努力、将来持希望」という標語を見て、同じような悲劇が起きても希望を持つことができるのか、ということについて考えていた。100年前と比べて人の価値観は多様になり、社会は複雑になった。そのような時代で再び大きな災害が起きた時、私たちは希望を持つことが出来るだろうか。重要なのは「現在努力」の方かもしれない。何もないところから希望が湧いて努力できるのではなく、目の前のことをコツコツやるうちに、希望が少しずつ見えてくるのだと思う。旧横浜正金銀行に避難した人たちも、岸敬二郎氏も池上幸操氏も、足柄茶の種を蒔いた人たちも、目の前のことに必死だったことは伝わってくる。それは「過去不煩悶(過去の出来事に思い悩まないようにすること)」の状態でなければきっと出来なかったことだ。そのような一人一人の日々の努力が100年後も勇気を与えているというのは、現代でも数少ない「希望が持てる話」だと思うし、今も多くの人が思いを寄せる理由になっているのではないだろうか。

神奈川県立歴史博物館の馬車道玄関。


櫻井絵里(現代美術家)
東日本大震災の時に病気になった経験を元に作品を制作する。回復してからは自己から他者や社会へ意識が向くようになり、インタラクティブな映像作品の制作やワークショップも行っている。 https://lit.link/esakurai

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